昭和二十一年七月四日 暗黒大陸

暗黒大陸は西方大陸と東方大陸の両方と近い位置にあった。
特に西方大陸との距離は近い。天気の良い日であれば、対岸からその姿を見る事さえできる。
人が未知なものに挑み開拓していく力から考える限り、この広大な大陸が無人とはとても考えられないだろう。
だが、現実問題としてこの大陸にはほとんど人は住んでいない。
<風の海>や<凪の海>沿岸部に、漁民が避難用に作った小さな港が申し訳程度にあるだけだ。
理由はもちろんある。この大陸を支配している巨大昆虫たち、通称”蟲”が開拓を拒んでいるからだ。
少数で――せいぜい多くても数十人規模――までなら見逃してくれる昆虫たちも、それ以上の数になると遠慮はしない。
どこから集まってくるのか判らないほど多数の、しかも小型のワイバーンほどもある"蜂"や"蜻蛉"の群れが襲い掛かってくるのだ。

とはいえ、この暗黒大陸を支配しようという試みがなされなかったわけではない。
特にその東岸からすぐに暗黒大陸を臨む事ができる西方大陸からの"進出"は幾度となく企図されている。
かの大陸の覇者たちは幾度と無く"蟲"の殲滅と暗黒大陸の制覇を試みていた。
その最も新しい試みが行われたのがおよそ百年前の事だ。
ガーランド大公国の"獅子王"オスカー三世が多数の魔法剣士、戦艦とドラゴンで攻撃を仕掛け――あえなく敗れていた。
魔法剣士は人間大の螳螂に切り刻まれてしまったし、戦艦の艦砲射撃ですら巨大百足や大芋虫をとめる事ができなかった。
空の王たるドラゴンは一対一なら<巨蜂>や<大蜻蛉>を圧倒できたが、百倍を優に超える数を前にしては戦いようが無かった。
数年にわたる激戦の末にドラゴン以外の戦力がほぼ壊滅した事によってこの試みは失敗に終る。
この敗戦によってガーランドが国力を低下させた事が神聖エーベ王国を台頭させ、後に西方大協約が成立する原因にもなっている。
そのような経緯もあるため、現在の大協約では暗黒大陸への渡航は禁忌事項とされていた。
神官王ヴィンセントの祖父にして大協約成立の立役者たるヴィンセント――同じ名前だが別人である――がそのように定めたのだ。

それ以来、大陸の奥深くに入り込もうとするようなものは居ない。誰でも命は惜しい。
しかし今、その禁忌を犯してまでも暗黒大陸の中央部に向いつつある人の集団があった。
草とも土とも付かぬ色合いの服を着、背嚢と武器らしき棒を持つ男たちと、数名の魔道士姿の女たちだ。
むせ返るような木々の匂いと妖しげな音色を奏でる蝉らしき生物の声を聞きながら、密林を掻き分けるように進んでいる。
どこか今までの"開拓者"とは趣は違う。それもその筈だ。
彼らは数年前にこの世界に"転進"した日本が送り出した精鋭達なのだ。
彼らの進路はちょっとした大きさの川と切り立った崖で塞がれている。これ以上は進めそうに無かった。
川の先には小さな湖と草原が広がっているのが見える。目的地はそのさらに先のはずだった。
隊の先頭を行く禿頭眼鏡の男が命令する。

「よし、ここで小休止だ。川田達を待つ。」

男の名は辻正信日本陸軍大佐。"作戦の神様"と呼ばれている男だが、今はこの探索隊の隊長に納まっている。
彼は手帳を開き、この風景を描き始めた。何かに使うつもりなのかもしれない。
背後に控える男達が緊張を解いた。全員が日本陸軍中野学校出身の精鋭で、皆、常人を上回るだけの何かを持っている。
それでもこの行軍は堪えるのだろう。辻から小休止が出たとたん、数名が安堵とも達観とも取れるため息をついた。
無理もない。道なき道を歩きとおすというのは、如何に強靭な精神力を持っていても中々出来る事ではない。
しかも、歩くのは見慣れた動物たち――所謂"爬虫類"、"鳥類"や"哺乳類"――がほとんど居ない、未知の密林だ。
食料の問題もあるだろう。長期にわたる行軍でもあるため、食料は現地調達が基本だが――蛇や鼠が取れればご馳走の類だ。
ほとんど毎食のように怪しげな甲虫、不気味な蜘蛛や得体の知れない茸を食べ続ければげんなりもするだろう。
だが、彼らがため息をついている一番の理由は――

「<王蛾>も飽きませんねぇ。」

ガランガ族の魔道士、ファトマがどこか楽しそうに空を見上げながら言った。
彼女の白いローブはこの長い密林行にも係わらず全く汚れていない。どういう原理なのかは見当も付かなかった。
最初は羨望の眼差しで見ていた日本人達も、ここまでになるとほとんど畏怖に近い感情を抱いている。
最近では服の事に触れるものは居ない。

彼女は目を眇めながら遥か上空を見つめる。周囲のものも釣られて空を見上げた。
極彩色の蛾が空を飛んでいる。焦茶色の地味な胴体から伸びる四枚の羽は薄黄色だ。
翼には赤とも橙ともつかない不思議な色で炎が燃え上がるかのごとき模様がついている。
一目見ただけでは何の不思議もない光景かもしれない。ただし、その大きさは――

「翼の差し渡しが百メートルもあるとはな。如何に暗黒大陸が巨大昆虫の島とはいえ、アレばかりはな。
 とても飛べるとは思えない代物だが、こうして現実に飛んでいる。」

渕軍曹が水筒から水を飲みながら言った。痩せ型で細い目をした彼はこの一行の中では最年長だ。
密林を歩くのは思ったよりも体力と気力を消耗する。彼には少し辛いのかもしれない。
上空からは団扇で何かをあおぐような音があたりに間断なく響く。<王蛾>が羽ばたく音だ。
ここ一週間、<王蛾>はほぼ一日中、特に何をするわけでもなく彼らの上空を飛んでいた。
攻撃を進言するものも居たが、辻大佐は許可しなかった。
巨大昆虫が支配するこの暗黒大陸において、その頂点に位置すると目される<王蛾>を攻撃するのは自殺行為だ。
あれだけの巨体を空に浮かべている<王蛾>の攻撃自体が非常識なものであろうことは想像に難くない。
その幼虫と目される巨大な芋虫状生物<大蟲>も彼等を敵とみなして襲い掛かってくるだろう。
それに、彼等はそもそも高度三千メートルほどと思われる地点を飛ぶ<王蛾>を攻撃できる武器を持ち合わせていない。
一応の自衛のために四式自動小銃と五式四十五粍簡易無反動砲の試作品も持ち込んではいる。
だが、その程度の武器では<王蛾>はもとより<王蛾>にも対抗できないだろう。
戦闘機でもあれば迎撃できるかもしれないが、ここには航空機を運用できるような設備は当然ない。

渕がうんざりしたような声で言った。視線は遥か上空に向けられている。

「<王蛾>は一体何のために飛んでるんだ?攻撃するつもりなら何時でもできるだろうに。
 別に邪魔にならんから良いようなものの、ピッタリくっつかれるのは気持ちのいいもんじゃない。」

その声を聞いた黒ローブの魔道士、マリカがつぶやくように言った。彼女の目は何かと交信しているかのように閉じられている。

「<王蛾>は導いてくれています。」

渕軍曹はマリカを横目で見ながらファティマに向って言う。

「お嬢はずっとそればっかりだが、本当の所はどうなんだ?本当に、我々の目指している――」
「ルクレリア。"勝利と裁きの女神"の巨像があると言う伝説の都市に向っているか、ですか?
 "伝承"によれば、間違いないはずです。<王蛾>による導きがあるというのも"伝承"の通りです。」
「・・・導きというよりは、"つけられている"という気しかしないがな。
 しかし、地図といえば貴方達ガランガ族が持っているアレしかない。本当に大丈夫なのか?」
「間違いない。全てが"伝承"どおりだ。我々は<王蛾>に選ばれたのだ。」

ファトマが何か答えるより先に辻大佐が言う。今までの会話を聞いていたらしい。
彼女は辻を見て愉快そうに尋ねた。

「"伝承"には、そこから先の記載はありません。辻大佐、ルクレリアに行ってどうされるおつもりです?」
「決まっているだろう。この世界に安寧を取り戻すことこそ、我が日本国の勤めなのだ。それに必要なことを成すだけだ。」

辻は言い切る。その目に一部の曇りも見出せないような、誰はばかることなき正論。それは確かに本心なのかもしれない。
だが、彼の行動を見るとその他の何かがあるようにも思える。真の目的は何なのかいつか聞いてみたい、彼女は思った。

昭和二十一年八月二十日 横須賀

横須賀海軍鎮守府――日本海軍の最重要拠点から多少離れた場所にその店はあった。
昭和十六年に行われた"横須賀空襲"による大火災の影響で、ここ横須賀では煉瓦やコンクリートで作られた建物も増えている。
だが、この界隈は奇跡的にその被害を免れている。木造の建物もよく手入れされた庭も何の影響も受けていない。
木の塀から見える建物はやや古びてきてはいるものの、このくらいはむしろ味であるともいえるだろう。
横須賀という土地柄から当然の如く、その店は海軍軍人たちで賑わっていた。
他の店が焼け焦げてしまい、店の選択肢があまり無いという理由も無いではない。
しかし、ここ料亭「小松」――通称「パイン」はそうでなくても海軍ご用達の店だった。
尉官以上でこの店を知らないものなど居ないだろう。

長くなりつつある陽もようやく暮れかかる頃、一人の海軍軍人が「パイン」の門をくぐる。
階級は海軍少将。知性を感じさせる顔立ちだが、瞳には野心の色が見える。
玄関先で今日の客人が既に着いている事を知らされた彼は少し唇を歪めながら案内された部屋に向う。
彼が向う部屋を含め、今日も「小松」は賑わっているようだ。
男達の笑い声と女達の嬌声が聞こえる。戦争中だというのに、ここには悲壮感はない。
同盟軍優位に進んでいるのが明らかになりつつせいだろう。
だが、その空気を男は嘲笑った。

――馬鹿どもめ。貴様等は何もわかっておらん。このままで良い筈がないというのに。
  まあ、そんな事も判らん奴等も利用できるうちはせいぜい利用させてもらおう。

彼は目的の部屋の前に立ち、襖を開け放った。

”金毘羅 船々 追い手に帆かけて シュラシュシュシュ 回れば 四国は 讃州 那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現”

陽気な「こんぴらふねふね」の歌と三味線が聞こえてきた。
その音色にスーツを着込んだ金髪の大男と着物姿の芸者が向かい合い、お銚子の下に敷く"袴"を取り合っている。
スーツの男が逆さまに置かれた"袴"を取とった。対面で座る芸者は手を広げてしまった。
その様子を見ていた半玉が媚びたような声を上げる。

「ミーさん、お強い!あたし、惚れちゃうかも。」

それをにこやかに見ながら、ミーさんと呼ばれたスーツ姿の男は低く渋みのある声で応じた。

「そんなこと無いですよ、偶々です、たまたま。」

ミーさんと呼ばれた男は、そこで初めて海軍将校に気が付いたようだ。
些か慌てた様子を見せ、芸者衆に声をかける。

「海軍さんが着いてしまいました。名残惜しいけど、今回はここまで。続きはまた今度。」

彼女たちも商売だ。若干不満そうな顔を見せる半玉もいたものの、何も言わずに一礼して下がる。
芸者達が去り、襖が閉められた後でスーツの男は口を開いた。

「また具合の悪い時に来たものだ。もう少しであの半玉は"落ちた"というのに。
 まったく勿体無い。次はもう少し時間を考えてくれたまえ。」

言葉は愚痴以外の何物でもないが、口調はあくまでも楽しげだ。
仮にも将官に対して無礼な物言いではあるが、これがこの男の特徴と割り切っているのだろう。
海軍軍人は皮肉げに答えた。

「判った、気をつけよう。・・・しかし、ミシェル・レヴェックともあろうお方が半玉ごときに入れあげるとはね。
 しかもミーさんとは。まるで猫ではないか。」

それを聞いたミシェル・レヴェックは軽く笑い声を上げ、悪びれずに答えた。

「女性は国の宝という言葉が日本にはあるそうだな。宝を愛でないものが居るだろうか?君もそう思わないかね?
 特にあの半玉は、将来きっと美人になるぞ。金額次第ではあるが、水揚げしても良いと思っているのだよ。」

海軍軍人は半ば呆れたように言う。

「貴公は本当に女好きだな。まあ、エスプレイも程々にしておいてくれ。私にも立場というものがあるのでね。
 海軍省運輸本部長兼大本営海軍戦力部長と同盟軍大手商会の当主が連れ立って芸者遊びなどとあっては人聞きが悪い。」
「君、冗談はよくない。輸送を主な事業とする商会の人間が海軍の運輸を司る将軍と会食するのに不都合はあるまい。
 それに、この"勝ち戦"の空気の中で、夜な夜な芸者遊びをしていないほうが珍しいだろう。
 ムラグチとかいう将軍は毎日料亭から出仕しているという噂も聞くぞ。」
「牟田口、だろう。それに、その噂は事実とは異なっている。」
「そうなのか?」
「ああ、事実ではない。なぜなら、その噂を流すように仕向けたのは俺だからな。」

正確には俺達の仲間だが、海軍軍人は補足した。ミシェルが含み笑いをしながら頭を下げる。

「おみそれしました、石川少将殿。すっかり騙されてしまった。」
「いつも言うとおり、海軍では"殿"はつけない。役職で呼んでくれると嬉しいのだがね。」

度重なる非礼にも係わらず、石川信吾海軍少将はかすかな笑みを浮かべながら言った。
この種のやり取りは彼らの間では半ば儀式のようになっているのだ。

「しかし、何故パインなのだ?俺も貴公も普段は東京市内に居るのだから、市内の適当な場所でもよかろう?
 海軍軍人と飲むのにパインというのは普通ではあるのかもしれないが、見るものが見れば不自然だ。」

お陰で横鎮まで来る用事を作る必要があったのだぞ、石川少将が若干不機嫌そうに言った。
直近は<風の海>大海戦のような派手な作戦がないため、運輸本部長の仕事はそれほどでもない。
とはいえ、先ごろ完成した大攻"蒼山"の砂漠地帯への展開が迫っている以上、仕事はそれなりにある。
今日は木製輸送飛行艇の"蒼空"の見学という用事を作って来たものの、できれば東京を離れたくはない。

ミシェルは肩をすくめ、膳から箸で器用に唐墨を摘んで口に入れ、盃から酒をあおってから答えた。

「そうだな。料理が気に入っているから・・・という説明では不足か?」
「貴公が今食べたのは唐墨ではないか。そんなもの、どこでもそれ程差があるものでもなかろう。
 大体、料理というだけなら東京市内にはもっと美味い店が沢山あるぞ。例えば――」

石川少将の言葉をミシェルは手を振って遮った。

「星ヶ岡茶寮か?あそこはあまり好きではない。一度行ったが、できるならもう二度と行きたくない。」
「何故だ?料理は確実にあちらのほうが美味いぞ。美食倶楽部がやっているからな。」
「そういう問題ではない。」
「ではなんだ?」

不思議そうに尋ねる石川少将にミシェル・レヴェックは肩をすくめた。

「あの場所に残留する魔力がどうにもに合わん。元々神殿か何かあったのではないか?」
「そう言えば、あの場所には日枝神社が建っていたという話を聴いた事があるな。
 ・・・しかし、神社が苦手とはね。やがて世界の半分を統べる男とは思えない台詞だな、大公殿下?」
「言ってくれるな。強い魔力を持つという事は、そういった事に日々苦悩するという事でもあるのだよ。
 特にこの日本のように旧い神々が力を持つ土地にあってはね。それに――」

ミシェル・レヴェックことヘクター・ハースト・ヒースクリフ大公は再び盃を呷る。
満足げな吐息と共に言葉を継いだ。

「私よりも護衛を務める魔法剣士達と、彼女達が操るナイトメアがあの地を嫌がるのだよ。
 何しろここは"敵国"で、私はいつ命を狙われてもおかしくない身だからな、慎重にならざるを得んよ。」

彼は相変わらず笑顔で、とても本心を口に出したとは思えなかった。石川少将は問い返す。

「それが判っていながら、貴公は何故日本に来たのだ?尾崎から話を聞いた時には信じられなかったぞ。
 敵国最高実力者の一人が身分を隠して乗り込んでくるなど、悪い冗談以外の何物でもない。まるで講談ではないか。
 いずれにしても正気の沙汰とは思えん。」
「確かにそうかもしれんな。だが、私なりに勝算があっての事だ。君に迷惑をかける事はないよ。」

そうそう、最初の質問に戻るがね、ヒースクリフ大公はそう前置きしてから言う。

「ここ横須賀は海軍でもつ街だろう?ここの雰囲気から海軍の様子を知ることもできる。
 君たちだけでなく、日本軍に潜入したマリーベルやその部下からも報告は受けているとはいえ、やはり実際を見ないとな。
 ・・・正直なところ、現状はあまり良くないように見えるが、どうだ?」

石川少将は頷き、表情を引き締めて言う。

「その通り。実際のところ、勝ち戦が見えてきた今のままでは難しい。去年の三月であれば良かったのだろうが。
 あとは"細胞"達の地味な活動に期待するほかは無い。」
「使えるのか?」
「党組織は鍋山や佐野が転向したせいでかなり痛んでいたが、宮本も徳田も中々良く立て直してくれた。
 主力艦は難しいが、その他は順調のようだ。特に航空隊には随分と"細胞"が増えつつあるとも聞いている。」

もっとも、俺が直接操っているわけではないから詳しくは知らんがね、石川少将は付け加えた。

「どの部隊で増えているのかによるだろう。難しいところだな。」

ヒースクリフ大公は難しい顔で言う。

「航空隊では士官と下士官の間の問題よりも飛行士と整備士との問題の方が大きいの扱いのだろう?
 マリーベルから前にそう報告を受けた覚えがある。"細胞"に整備班側が多いとするなら、直接的な戦力にはならん筈だ。
 もちろん間接的な部分では力になるだろうから、悪いことばかりではないのだがね。」
「来日して僅か一年足らずだというのに、貴公は随分と我が軍について学んでいるのだな。」

石川少将は呆れたように言った。ヒースクリフ大公が答える。

「対象が何であるかを知る事は基本だからな。とはいえ、科学技術は判らん。私に判るのは組織とその役割についてだけだ。
 少なくとも、軍というものが権力側が持つ合法的暴力装置を意味するという事に関しては我等の世界も大差ないしな。
 軍が行使する力が”魔法と生物”由来のものか”科学と鉄”由来のものか、等というのは枝葉の事象に過ぎん。
 本質を見誤らなければ、どうという事は無いよ。」
「流石だな。同じ立場になった時に魔法を”枝葉”と言い切れる将官などほとんど居ないだろうよ。
 貴公、大公などという立場を捨てて日本軍に入ったら如何だ?今度発足する空軍は人手不足だ。
 それだけの才覚があれば、すぐに元帥になれるぞ。」

明らかに冗談とわかる口調で石川が言った。ヒースクリフ大公は軽やかな笑い声を上げ、自分と石川の盃に酒を注ぐ。

「悪くないかもしれんな。・・・時に、空軍元帥の俸給は大協約大公の荘園料よりも高いのかね?」
「さあな、見当もつかんが、少なくとも半玉を身請けするのは楽になるだろうな。」

男たちは揃って笑い声を上げた。

「それは兎も角、だ。私はそもそものところを確認したいのだが。」
「何だ?」
「あのマルクス主義者――共産主義者というのが正しいのか、とにかく連中は使えるのか?ああ、勘違いしないでくれ。」

今更それを言うのか、と怪訝な顔をした石川少将を制してヒースクリフ大公が続ける。

「マリーベルは志が無いと嫌がるかもしれんが、少なくとも私はゾルゲや尾崎のような"金と女"で転ぶ連中は信用している。
 ああいう手合いは、こちらが上等な"餌"を与え続ける限りは逆らう事は無いだろう。体のいい家畜のようなものだ。
 だが、あの共産主義者とかいう連中は自分の信じたいものしか信じない。言ってみれば、飼いならせない野獣と一緒だ。
 何かの拍子に此方の意図を離れて暴走したり、逆に白昼夢から覚めたりする危険性があるのではないか?」
「・・・同盟軍の幹部も、貴公らの政体と国民性について同じような事を言っていたな。だからそう思うのか?」

石川少将がしてやったりという表情で言う。ヒースクリフ大公はむしろ穏やかな声音で応じた。

「人間社会など、どのような"世界"でも大体同じような作りだ。だから、どこの国でも民草の事情はさして変わらんのだよ。」
「流石に"国民"の事を良く判っている。"解放仏教"などという怪しげな宗派もその理屈で作り出したのか?」
「そうだ。"法の教理"とマルクス主義と仏教の三つを何となく結びつけただけのものではあるが、不思議と耳障りは良いだろう?
 耳障りがよければ浸透する確率も高くなる。貴公の目的のためには必要な事ではないか。」

ヒースクリフ大公はそういうとまた唐墨を口にし、酒をあおる。それを見ながら石川少将はずっと気になっている事を尋ねた。

「・・・しかし貴公、何が目的だ?日本に”革命政権”が樹立されたところで、貴公らに利はあるまい?」
「何故そう言い切れる?この世界に秩序と正義を取り戻すことこそ、大協約大公たる私の、本来果たすべき勤めだ。
 そして君たちが目指す国家の理念と"法の教理"とは兄弟のようなものだ。兄弟を支援するのが何かおかしいことなのかね?」

ヘクター・ハースト・ヒースクリフ大公は言い切った。言葉だけを聞く限りは使命感を抱いているように聞こえる。
しかし、その言葉とは裏腹に表情は実に楽しげだ。彼は手酌で盃に酒を満たして呷ると軽く微笑んだ。

――狸め。何を考えていやがる。

石川少将はそう思った。戦争終結のためなどという事は全くの出鱈目に決まっている。
国内を混乱させる目的にしても、直接来て工作を行うなどというのは愚の骨頂だ。もっと他に良い手は幾らでもある筈だ。
だが、真の目的が分からないという点を除けば、彼の協力を断る理由がほとんど無いのも事実だった。
今のところ、この油断ならない盟友は協力を約束してくれている。石川が思い描く世界像と大公が提示したものともほぼ同じだ。
ならば問題ない。海軍第一委員会を実質的に主導し、対米戦まであと少しまで漕ぎ付けた事に比べれば大したことは無い筈だ。
それまで、ヒースクリフ大公の一派は陸軍統制派の連中と同じように扱っておけば良いだろう。
石川信吾海軍少将はそう考えて盃を手にする。ヒースクリフ大公が器用に酌をした。
彼は盃を一気に飲み干す。満足そうに吐息を吐く石川少将を、ヒースクリフ大公が楽しげに眺めていた。


初出:2010年7月18日(日) 修正:2010年7月25日(日)


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