統合暦76年9月15日 大協約神都アケロニア近郊イパエルシア湖

四億五千万の民を統べる”大協約連合”。その神都アケロニアから二十マイルほど離れた場所に湖があった。
四方を山に囲まれた全周300マイルほどのこの湖は風光明媚な事で知られている。
針葉樹の斜面が湖面に映る様子はまさに絶景だった。湖の中央にある、美しい塔を持つ城も幻想的な雰囲気を演出している。
夏には大協約貴族達が避暑に訪れる事も多かった――平時であれば。

戦時の今、ここを訪れるのは軍人達だけだった。島にある城は、大協約軍の軍事施設として機能している。
城の中央部にある司令官公室では二人の男が対峙していた。
シャイアン・マクモリス第三王子とその義兄ヘクター・ハースト・ヒースクリフ大公だ。

シャイアン・マクモリス第三王子は巨漢だった。長身のヒースクリフ大公よりも頭一つ大きい。
猛撃猪突重騎兵団のアドニスと並ぶ、大協約でも有数の巨漢として知られている。
ただし野蛮人然としたアドニスとは随分と印象が違い、シャイアン第三王子はいかにも大身であるように見える。
折り目のはkkりした軍服をそつなく着こなし、背筋を伸ばして大またに歩く姿は父親たるヴィンセント譲りの気品も伺えた。
ただし身にまとっている空気は紛れも無く武人のそれだ。太い猪首と油断無い目つき、何より頬に刻まれた刀傷がそれを醸し出している。
武勇も折り紙つきだった。逞しい胸には複数の勲章が付けられている。実戦で功績をあげた軍人に与えられる種類の勲章だ。
"近接戦闘による一会戦での敵兵撃破二百人"を示すものもある。これを与えられるのは全軍でも両手で数える程でしかない。
"親の七光り"で後方支援の勲章を手に入れる大貴族の子弟が多い中、これは異色といえる。
父親や義兄貴ほどの魔力は持たないものの、巨大な戦槌を用いての近接戦闘能力は大協約軍でも1、2を争うとされていた。
しかし猪武者ではない。作戦能力も高いとされていた。十数年前に北方辺境で起きた流刑囚暴動鎮圧の手腕からも明らかだ。
戦力差一対三という絶対不利の状況からドラゴン等の力を借りずに人間歩兵だけで戦線を建て直し、見事に勝利したのだ。
それ以来、シャイアンは常に前線の兵と共にあった。情に篤い彼は部下からも非常に慕われている。
彼と共に戦ったものたちは彼を賞賛してやまない。血統を見ての追従では無い、心からの賛辞がそこにはあった。
シャイアン・マクモリスとはそういう男だった。

二人の兄のうち一人は幼い頃に夭折し、もう一人は病弱という事もあり、血統的には最も至高の座に近い。
もっとも、本人にそのつもりは無い。シャイアン第三王子は軍事的能力をもってこの国に貢献できればそれでよいと考えていた。
自分に政治の才能はない、故に王座は義兄が継ぐべきだと考えていたし、周囲にもそう話していたのだ。
だから、彼は義兄の考えに――ことに政治的な場面では反論することはあまりなかった。だが、軍事となれば話は違う。

「俺の直属軍は精強だ。この”スレイマーン”もある。だが戦は数だよ、義兄貴。」
司令官のシャイアン・マクモリス第三王子は言う。その表情は自信に満ちている。
彼は経験から、戦を制する要素が――様々な戦力の加減算要素はあるにせよ――純粋な数である、という信念を持っていた。
他の者が言えば言い訳と取られかねない台詞であったが、絶対不利から勝利をもたらした事のある彼の言葉には重みがある。

彼は自信に満ちた表情のまま続けた。
「結局、どんなに優れた戦力であろうとも。対処可能な数というのは決まっているのだ。これだけが真実だ。
 "優秀な戦力"というのは閾値が少しばかり高いに過ぎない。もちろん、実力が懸絶していれば話は違うが、基本的にはそうだ。」
「だから、そちらには青竜騎士団と赤竜騎士団、さらにダグラス卿まで送っているだろう?」
ヒースクリフ大公が答えた。彼はシャイアンの顔を斜めに見ながら続ける
「ブルードラゴンとレッドドラゴン、それから大協約軍随一の知将だ。これは圧倒的な戦力ではないかね?」
「確かに戦力増加要素の一つには違いない。だが如何に優れた竜騎士団や知将とはいえ、ずっと戦い続けるわけではない。
 どこかに必ず穴が出来る。そこを突かれれば一巻の終わりだ。あっという間に全軍が崩壊することになるだろう。
 なまじ優秀な戦力に頼るとそれが顕著になる。それに――」
シャイアンは分厚い樫の板で作られた机にある書類を手に取り、何枚かめくる。
目当ての部分を見つけた彼はそれを義兄の方に向けながら言った。

「戦力が増えたといっても、現状は紙の上だけだろう?ここにも書いてあるとおり、合流は一ヵ月後だ。
 実際には青竜騎士団も赤竜騎士団も、ダグラス卿ですらまだロシモフに張り付いているではないか。
 参陣出来るかどうかは向こうの戦線次第という側面もあるはずだ。戦場では何が起きるか判らんからな。
 我々にこのまま砂漠に向かえとでも言うのか、義兄貴?」
大公は義弟の問に軽く微笑むと告げる。
「そこには書いていない朗報がいくつかある。まず、私の配下の魔法剣士兵団二万を預けよう。無論、ナイトメアも込みでだ。
 それだけではない。アンケル侯爵が作り上げたキメラからなる部隊もつけよう。これでも不足か?」
シャイアンは呻いた。確かに魔法剣士兵団とナイトメアは計算できる戦力だ。
それだけの数があれば、やりようによっては数倍の敵を相手にしても戦えるだろう。
キメラ部隊については未知数だが、あの”鉄仮面”が作り上げた以上、生半可なものではあるまい。それは確実に思えた。
だが彼は納得しなかった。肝心なものが不足しているのだ。
「義兄貴、不足だ。まだ足りない。戦線を維持するためには補給路を確保する事が必要だ。それには何よりも制海権が要る。
 制海権の維持のためには、最低でも一個艦隊は必要になるだろう。それがこの書類のどこにも書いていないぞ。このままでは駄目だ。」

「ああ、それか。君にはまだ書類がいってなかったのか、シャイアン?」
大公はなんでもないことのように言った。
「もちろん、艦隊派遣は行うとも。戦艦四隻、巨竜母艦四隻、巡洋艦三十二隻を中核とした艦隊だ。」
「それで"混沌の大国"の艦隊に勝てるのか?数が足りんだろう。」
シャイアンは懐疑的だった。彼は疑わしげに義兄を見つめた。
三年前の春、戦艦戦力において勝るはずの大協約艦隊が"混沌の大国"の艦隊に対してバレノア島沖で惨敗したことは記憶に新しい。
義兄が告げた戦力はいかにも中途半端だ。その程度の戦力ではもみ潰されてしまうに違いない。

ヒースクリフ大公は義弟の言いたい事が判ったのだろう。微笑を苦笑に変えた彼は告げる。
「言いたいことは判るよ。だがな、おそらくこれで充分なはずだ。
 彼らの正面は<<大いなる海>>だ。砂漠地帯まで、それほどの数は来るまいよ。それに――」
彼は一端言葉を切る。呆れたかのように首を振りながら続けた。
「混沌の国の軍艦は、どういうわけか航続距離が短いのだ。我等の船とは違い、定期的に燃料を補充する必要があるらしい。
 なにやら"シーゴースト"から取った液体を燃料にしているらしいが、詳しいことは判らん。
 あんな腐肉食いのクラゲから悪臭のする液体を搾り取るだけでも想像を絶するというのに、あまつさえ燃料にするなど。
 混沌の僕の考えは判らんな。・・・まあ、だからこそ滅ぼされるべきなのだが。」
「・・・なるほど、一応は考えているのだな。」
シャイアンは納得したようだった。それを見たヒースクリフは言葉を継いだ。
「それに、艦隊にはもう一つ切り札を用意してある。細かい書類は後で回すようにしておくから、見ておいてくれ。
 これが初の実戦参加になるが、必ず役に立つはずだ。」
「そういうモノは大体期待できないのだがな。・・・まあ、義兄貴がそう言うのなら信じようではないか。」

「そんなことより、そろそろ出発の時間ではないのか?私はこれを見に来たのだよ。滅多に見られぬ光景だからな。」
ヒースクリフ大公の言葉にシャイアン・マクモリスは破顔し、呵呵と笑った。
「そうだったな。つい話し込んでしまった。柄でも無かったかもしれんが、”スレイマーン”での実戦も久々だしな。
 緊張感の表れだと思って勘弁してくれ。」
彼はそう言うと机上にあった通信晶を手に取って部下を呼び出した。
「作戦指揮所、こちらシャイアンだ。発信準備は出来ているな?」
「はい、司令官。全ての準備はほぼ完了しています。あと三時間で出せます。」
シャイアンは頷くと、ヒースクリフを伴って司令官公室を後にした。

三時間後、二人は城の作戦指揮所にいた。大勢の魔道士が様々な通信を行っている。
一際大きな魔力を放つ金髪に白ローブの女性魔道士が緊張した面持ちで指揮を取っている。
「風の魔法力充填準は?」「10分前に完了しています」「魔力損失率確認」「0.2%を切っています。いけます」
「固定錨鎖撤去準備よいか」「準備よし。いつでも大丈夫です」「操舵魔道士の同調率確認」「89%。問題ありません」
喧騒に包まれていた作戦指揮所に唐突に静寂が訪れた。全ての準備が完了したのだ。
先ほどまで通信晶でせわしなく指示を飛ばしていた女性魔道士が二人に向かって言う。
「最終準備完了。いつでも出せます。」
その言葉を受けたシャイアン司令官は義兄に向かって言う。
「義兄貴、発進の号令をかけるか?王族たる義兄貴にはその資格がある。」
ヒースクリフ大公は微笑みながら首を振って義弟に答えた。
「いや、義弟よ。これは君のものだ。全て任せるよ。」
義兄の言葉に頷いたシャイアン・マクモリス第三王子は魔道士のほうに向き直り、声を張り上げた。
「”スレイマーン”を発進させよ!目標は<凪の海>の向こう、砂漠だ!」
「了解。”スレイマーン”発進いたします。」
先ほど報告を行った魔道士が恭しく礼をする。彼女は向き直ると魔道士達に命令を下し始めた。
「固定錨鎖撤去が完了次第、風の魔法力を解放する。準備よいか!」
その声に幾人もの魔道士がこたえ、作戦指揮所が喧騒に包まれ始めた。
動き始めた指揮所を満足げに眺めたヒースクリフ大公は閲兵所――城の中央に設けられた、儀礼用の高台に向かう。
これから起こるの光景を眺めるにはそこが一番良いだろうと彼は思っていた。

鏡のように山の緑を映す水面が僅かに揺れ始めた。その揺れは次第に大きくなり、やがて湖面全体が波打ち始める。
その振動を起こしているのは中央にある島だった。だが、島自体に揺れは見られない。
水面が荒れ狂い始めたその時、島と美しい城がありえない方向へと動き始めた。
城はその姿を保ったまま――上へと動いたのだ。水中に隠れていた部分が徐々に水面上に現れ、島を形作る岩肌を晒す。
島はその後も少しずつ上昇していき、やがては完全に空中に浮かび上がる。三十分後には空中数千フィートにまで達した。
鋭く尖る円錐状の岩塊から水飛沫がおち、美しい虹を形作っている。
島はしばしその高度を維持していた。何事か調整しているのだろう。一時間後、その威容は東へ――<凪の海>へと動き始める。
これこそ”スレイマーン”。大協約が世界に誇る空中要塞である。イパエルシア湖はその収容のために作られた人工湖なのだ。
元は"風の精霊王"の居城だった。それを精霊王の死後に大協約軍が入手し、人間の魔力での動作するように手を加えたのだ。
ヘクター・ハースト・ヒースクリフ大公は僅かな笑みと共に”スレイマーン”中央城の閲兵所から地上の光景を見ていた。

統合暦76年10月22日 イーシア共和国沖100マイル

イーシア共和国の沿岸から100マイルほどの地点。既に陸地は遠い彼方に去っていた。
海面は<凪の海>の言葉どおりに荒波一つ無いほどに凪いでいるらしく、蒼い海面は深い輝きを放っていた。
その海面を赤と青のドラゴンの群れが飛び、少し後に昆虫――巨大な蜻蛉の群れが続く。

蜻蛉は通称”ケータリング・バグ”と呼ばれる荷物運搬用の昆虫だった。
元々は暗黒大陸原産の巨大昆虫――いわゆる"蟲"の一種だ。
それを、西方大陸の人間達が長い年月をかけて改良したものだ。元が昆虫であるため非常に安価なのが特徴だ。
反面、知性が低く、人間の思考についてこれないためか複雑な動きが出来ないのが欠点といえる。
騎竜鞍のような"人間の意志を間違いなく伝達する"装備をすれば指示したとおりの動きも出来る。
しかし実用化はされていない。騎竜鞍は高価な魔道具であるし、蟲の寿命が二年程度と短いためだった。
だが、それはあまり問題になっていない。この蟲の主な用途は輸送であるからだ。
”ケータリング・バグ”が飛来する二拠点に予め魔法をかけておけば、その間を往復するように"調教"されている。
動作の開始、終了も簡単な呪文一つで行えるため、大協約のある西方大陸では一般的に用いられている。
この蜻蛉は東方大陸では育たないこと、決して後退しない事等から"法の蟲"と呼ばれることもあった。
この<凪の海>空域にいる"法の蟲"達は脚に窓の付いた箱を抱えていた。
彼らは”スレイマーン”所属の空中輸送隊だった。ウェイン・ダグラス卿とその兵を空中要塞まで運んでいるのだ。

空中を進む大協約軍部隊の先頭にいるのは青竜騎士団の七十四騎だった。
その更に先頭で全軍を従えて飛ぶブルードラゴン、キャンディス・フォン・ベックマン男爵の騎竜たるハイ=スカイは空中はるかに浮かぶ何かを見つけた。
あれは、間違いなく――

"お嬢さん、”スレイマーン”が見えてきたぞ。いつ見ても大したものだな、あの威容は。
 アレがある限り、我等大協約に負けは無いだろうよ。そうは思わんか?・・・お嬢さん、聞いているのか?"
"・・・聞こえているわ、ハイ。もう間もなく”スレイマーン”到着のようね。"
キャンディスは答えた。その思念派には張りが無い。どことなく上の空であるように感じられた。彼は真面目な口調で言った。
"ロシモフ戦線が気にかかるのか。とはいえ、今、我々に出来る事は彼らの善戦を期待することだけだぞ。"
キャンディスはため息をついた。
"判ってるわ。でも、同盟軍の思惑にのって本当に良かったのか、自信がないわ。"

大協約軍が中西部ロシモフ最大の都市"フランキア"に突入を開始したのは彼女達が離陣する直前、9月22日のことだった。
ホビット族長老、パルキータ・フランキーの一族が代々治めるこの街はロシモフ有数の魔法都市としても知られている。
この周辺には同盟軍の大兵力が集められていた。大協約軍への反撃の第一歩としてこの街が選ばれたためだ。
ロシモフ中西部では珍しい高い丘には城砦が築かれ、大きな川が天然の堀になって地上軍――地中軍も――を防いでいた。
市内には数十万規模の軍勢が数年間篭城できるだけの物資が蓄えられてもいる。
魔力弾、各種の秘薬や魔法材料などについての材料も揃っている。もともと、それらは"フランキア"の主力産業でもあるのだ。
同盟はここで大協約軍を迎え撃つつもりで今まで準備を進めていたのだ。
また、ここは同盟軍にとっては"験のいい"場所でもあった。
エルフ・ホビット連合軍とドワーフ・人間同盟との戦争では、この町を巡っての攻防が幾度も繰り返されている。
そしてそのたびにエルフ・ホビット連合軍が勝利を収めている。敵を迎え撃つにあたって、ここ以上の場所は存在しないといえた。

大協約軍もそのことは重々承知していた。彼らはあえて同盟軍の思惑に乗ることにしていた。
"どこにいるか判らない軍を相手にするよりも、堂々と対峙してくる軍を相手にするほうが余程良い。
 見えない敵は相手にしようが無いが、見えている敵なら殴りつければ良いだけだ。そうだろう、お嬢さん?"
ハイは正しい、キャンディスは思った。確かにその通りだ。軍同士の殴り合いという意味では合っている。
しかし――
"判ってるわ、ハイ。でも”逸をもって労を討つ”という兵法の基本中の基本通りの事をやられているのよ?
 気にならないという方がおかしいとは思わない?"
"確かに、それは判らないでもない。・・・だが、それだけでは無いのだろう?本当のことを言ったらどうだ?"
・・・流石ね。ハイには隠し事は出来ないわ、彼女はそう思いながらブルードラゴンに応じる。
"私達の後任が白竜騎士団というのが気になるのよ。オーガスト白竜騎士団長はヒースクリフ大公の腹心のはず。
 その彼をロシモフ戦線に送り、私達を砂漠に送る。明らかにおかしいわ。"

青竜騎士団と赤竜騎士団を転戦させるという命令に対し、大協約ロシモフ派遣軍司令官のガーウィック公爵は激しい抗議を行った。
”ドラゴン抜きでは制空権を維持できず、制空権が無ければ優勢な敵地上軍に対抗できない”
その抗議に対する大協約総軍司令部、通称"黒煉瓦"の回答が”緑竜騎士団と白竜騎士団の派遣”だった。
確かに、巨体ゆえに高い攻撃力を誇るグリーンドラゴン、対空にも対地にも優れるホワイトドラゴンであれば青竜騎士団と赤竜騎士団の穴は充分に埋まる。
ドラゴンの任務としては、ここから先は地上戦の支援が主になる可能性が高い。それを考えれば妥当な戦力配置とも思える。
だが、キャンディスは納得していなかった。
士官学校時代のつてをたどり、この命令の出所がヒースクリフ大公であるという事を突き止めていたからだ。

"考えすぎだ、キャンディス。"
ドラゴンは諭すように言う。彼女が少し感情的になっているのに気が付いたのだろう。
"たしかに白竜騎士団はヒースクリフ大公の腹心だ。それは間違いない。
 だが、これからの季節――冬に戦うという事なら、ブルードラゴンとホワイトドラゴンの差はほとんど無い。
 寒さに強いという意味では彼らの方が向いているかも知れん。それに、緑竜騎士団のブライアン・ハート団長は――"
"確かに、彼はヒースクリフ大公とは無縁ね。いえ、むしろダグラス卿の味方といえるかもしれない。"
"そういう事だ。お嬢さん、考えすぎじゃないのか?"
ハイ=スカイは少しおどけるように締めた。キャンディスは苦笑する。
"そうね、考えすぎよね。疲れてるんだわ、きっと。この二、三年、色々ありすぎたから。"
"・・・確かにな。"
それを最後に、会話が途絶えた。だが、居心地が悪い沈黙ではない。どこか満ち足りた空気がある。
キャンディスの耳にはドラゴンの羽ばたく音だけが聞こえていた。
彼女は幼い頃からこの羽音を聞いて育っている。キャンディスは疲れている心が癒されていくのを感じた。
――そうだ、この音がずっと私を護ってくれているのだ。何も怖れる必要など無いではないか。

キャンディス達が”スレイマーン”に到着したのは30分ほど後のことだった。
最初に着陸するのは色々な意味で――飛行性能というよりも応用性がない――あまり余裕の無い”ケータリング・バグ”部隊だ。
次にレッドドラゴン達が着陸し、ブルードラゴンは最後に降りる事が決まっている。
彼女は青竜騎士団を空中要塞の上空で旋回させ、空中要塞の様子を眺めた。何度見ても素晴らしい。キャンディスは嘆息した。

上空から見た”スレイマーン”は長径十二マイル、短径八マイルほどの楕円形をしていた。
ただし完全な楕円ではない。風の精霊王がその魔力で岩塊を削りだしたときは滑らかだった縁に、今では港湾施設が作られていた。
当初はイパエルシア湖等の水面での保守運用を楽にするために作られたものだった。だが、今はより大規模なものになっている。
海洋で艦隊根拠地としても利用可能な規模だ。とはいえ”スレイマーン”自体は空中に浮かぶ事に価値があるため、実例は少ない。
どちらかというと、今回のような遠征中に補給手段として使われる事が多かった。
長径の両端には高い城壁をもつ建造物がある。そこには巨大な魔道砲が複数設置されていた。”スレイマーン”の主砲だった。
最大級の古竜骨を使用した「3000ポンド魔道カノン砲」である。空中要塞はこれを合計二十基装備していた。
空中から高速で打ち下ろされる魔力弾は防ぎようが無いだろう。まさしく脅威以外の何者でもなかった。
要塞とはいいつつ島でもある”スレイマーン”には森や湖まで存在する。だが、そこにも大弩や魔道砲が隠してあるはずだ。
中央部には星型六角形の堀に囲まれた通称”中央城”が聳えている。まさに無敵の空中要塞と言えた。

大協約軍の増援部隊は一騎も欠けることなく”スレイマーン”に着陸した。
空中要塞は時速2マイルほどの緩やかな速度で進軍しているはずだが、それを感じさせるものはほとんど無い。
地上の風景が見えればまだ違うのだろうが、この海上3000フィートから見えるものは流れる雲だけだ。
移動する事により発生しているはずの風を感じることも無かった。僅かなそよ風が針葉樹の枝を揺らしているが、それだけだ。
転落防止を兼ねた風の魔法による結界制御が利いているのだ。

――こうしてみると、とても空中にいるとは信じられないな。西方大陸のどこかの森にいるようだ。
キャンディスは思った。彼女はアシュリーとダグラスと共に煉瓦で舗装された道を馬車に揺られいる。
シャイアン遠征軍総司令官に着任の報告をするためだ。三人はどうという事は無い話をしながら”中央城に”向かっていた。
「そういえば、貴公らはシャイアン王子に会ったことはあるのか?」
ダグラス卿が二人に尋ねる。青竜騎士団長と赤竜騎士団長はともに頷き、アシュリーが答えた。
「ええ、何度か。最後にお会いしたのは”ケンペル岬沖海戦”の祝勝会だったかと。」
「・・・同盟艦隊を一度は壊滅させたあれか。考えてみれば、あの頃は良かった。特に疑うものも無くてな。」
――やはり、ダグラス卿も。彼の言葉を聞いたキャンディスは思った。

「良く来てくれた。この”スレイマーン”と俺の直属軍に加えて貴公らがいれば、もはや砂漠の都市国家群など物の数ではない!
 あっという間に片付けてやろうではないか!」
シャイアン・マクモリスは快活に言った。三人を代表してダグラス卿が軽く微笑んで答えた。
「勿体無いお言葉です、王子。我等三人、微力を尽くさせていただきます。」
「・・・しかし、連中もおとなしく中立を保っておればいいものを、こともあろうに"混沌の大国"と手を結ぶなどとはな。」
 ”所詮、志を持たぬ輩などその程度”かな?ガートナーよ。」
シャイアンは傍らに立っていた騎士に話しかけた。総白の髪を後ろで束ねた、意志の強そうな瞳をした女性は凛とした声で答えた。
「仰せの通りです、マクモリス司令官閣下。"灰色の神々"――中立への信仰など、所詮はいい加減なもの。
 それだけでは飽き足らず、代々伝わる信仰を捨ててドラゴンに抗し得る飛行機械を擁する"混沌の大国"を選ぶなど、言語道断。
 そのような輩に語る舌を、私は持ちません。我が正義の剣によって、彼らの盲を解き放って見せましょう!」
彼女はそう言い放つ。キャンディスたちが怪訝な顔をしているのに気が付いた騎士は三人に向き直ると言った。
「申し遅れました。私はヒースクリフ大公直属の親衛隊、魔法剣士兵団の長を勤めているマリーベル・ガートナーです。
 大公より、今回作戦への参加を命じられています。共に悪しき混沌と戦いましょうぞ。」
そういうと彼女は一礼する。その姿には一部の隙も無く、まさに法の精神を体現しているとさえいえるだろう。
だが同時に――キャンディスはその姿に狂気にも似た危ういものを感じずにはいられなかった。

初出:2010年3月14日(日) 修正:2010年5月25日(日)


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