”かごめ かごめ”
高梨は微かに聞こえている歌声に気が付いた。同時に、自分が目を瞑っていることにも気が付く。
彼は目を開いた。粗末な絣模様の着物を着た幼児達が高梨を囲むようにしながら童歌を歌っている。
高梨は直前までの状況を思い出した。そうだ、俺はブルードラゴンに撃墜された筈だ。
落ちた場所は砂漠だ。幼児が――特に、日本人の子供などがいるはずがない。高梨は疑問を口に出した。
「ここはどこだ?君達は一体・・・?」
”かごのなかのとりは いついつでやる”
だが、幼児達はそれには答えずに童謡を歌い続けている。高梨の声が耳に入らないようだ。
彼は落ち着かない気分で辺りを見渡す。辺りは先ほどまでの砂漠ではない。一面の草むらだった。
遠くにわらぶき屋根の民家と水車小屋らしき建物が見える。民家の軒先には大根が吊るしてあった。
高梨は、不意にこの風景を見た事があるのに気が付いた。そうだ、那須にある大叔父の家だ。
あそこの角を曲がると牛小屋があるに違いない。彼がそう思ったとき、歌が終った。
”よあけのばんに つるとかめとすべった うしろのしょうめんだーれ”
辺りからは風がざわめく音だけが聞こえてくる。その静寂に戸惑う高梨に幼児の一人が声をかけた。
「たかちゃんが鬼だよ!」
彼はその声にはっとして自分の姿を見下ろす。良く見れば、彼も幼児たちと変わらぬ粗末な着物を着ている。
慌てて手を全身に当ててみるが、着物を着ている事が判っただけだった。その手もどこか丸みを帯びている。
まるで子供に戻ってしまったかのようだった。
「どういう事だ!」
彼は確かにそう言った。その筈だったが、彼の耳に届いた自分の声は――甲高い、聞き覚えのない幼児のそれだった。
高梨の声を聞きつけたらしい、近くに座っていた編み笠を被った男が顔を上げた。
男は手に持った煙管を吹かす。綺麗な青空に煙草の煙が立ち昇っていった。男はそれをしばらく眺めた後、静かに言った。
「どういう事って、そりゃあ決まってるだろ。お前さんは――」
高梨は目を覚ました。さして高くない天蓋が目に入る。最初に見たものが空ではなかったことに、何故か彼は安堵した。
何かの革で出来たと思しきその天蓋は緩やかな曲線を描いて地面へと続いている。
それとを目で追った高梨は、同時に自分が仰向けに横になっていたことに気が付いた。
彼は動物の毛皮らしきものに包まれるようにして横たえられていたのだ。
少なくとも死んだ訳ではないようだ。そう思った高梨は思わずつぶやいた。
「知らない天井だ・・・」
高梨が言葉を発した直後、天幕に外から光が差し込まれた。彼は反射的に光のほうを見る。
白く長いローブのようなものを来た人物が立っていた。影から見るに女性だろう。逆光であるため、表情までは判らなかった。
手には盆を持ち、そこに洗面器のような金属製の容器と手ぬぐいが乗せてある。
看病していてくれたのかもしれない。そう思った高梨は立ち上がろうとしたが、それは出来なかった。
膝から崩れ落ちるようにして毛皮の山にうずもれた彼を見て人影は忍び笑いを漏らした。
「ガバダ レ グ ガレダボベ? グボギ ラデデ ギシャ ゾ ジョンゼブスパ!」
人影は鈴を鳴らすような女性の声で何事かを言った。笑顔のままである事から考えると悪意はないらしい。
高梨は思わずため息を漏らした。そうしてから、自分が随分と緊張していた事に気が付く。
彼は苦笑すると、女性に向けて話しかけた。
先ほどの様子から察するに言葉は通じないだろうとは思うものの、一言、礼は言わねばならない。
「助けていただいたのですね。ありがとうございます。お陰で、砂漠に屍を晒さずに済みました。」
彼女は笑顔のまま手振りで寝ているように指示すると足早に天幕を出て行った。
高梨はその手振りに従いおとなしく横になる。そうしてから、両足に圧迫されている感覚があるのに気が付いた。
彼は両足の太ももに手を伸ばす。目の粗い布らしきものと、何か硬いものの感触がある。
まず間違いなくギプスか、それに類する治療具だろう。ということは――
「両足骨折、か。まいったな。」
広い天幕を一人で利用している気安さからか、思わず考えが口に出る。高梨は自分が発した言葉を吟味した。
――確かに両足骨折というのは重症には違いない。だが、まだ運はある。
切断されたわけではないし、何とか戦線に戻れば、十分に搭乗員としてやれるはずだ。
しかし、助かった。・・・あの状況で、もしこの人たちに助けられなければ、俺は間違いなく死んでいた。
この人たちは、一体――
彼がそこまで考えた時、再び外からの光が天幕に満ちた。先ほどの女性が二つの影を引き連れて入室する。
一人は頭髪を布で包んだ、豊かな顎鬚を持った浅黒い彫りの深い男性だ。宝石で装飾がなされた曲刀を腰に吊るしている。
もう一人は黒いフードを目深に被っているため詳しいことは判らないが、物腰からみる限りは女性のようだ。
水晶を掴む鉤爪が付いた細い杖を持っているところから考えると魔道士なのだろう。
男性がフードの女性に頷きかける。それに応じて女性は何事かをつぶやいた。天幕にいる四人の体から光が発せられる。
通訳魔法の光だ、高梨は気が付いた。男性は魔法の効果を確かめるようにゆっくりと高梨に話しかける。
「"我等”ガランガ族”の村へようこそ、”百万世界の彼方”からの客人よ。"」
――これが”ガランガ族”、砂漠を流浪する民か。座学で聞いたとおり、礼儀正しい部族なのだな。
高梨はジェシカが語ってくれたガランガ族についての知識を思い出していた。
この世界に最初に降り立ち、そのままこの砂漠で数万年を過ごしているという伝承すらある歴史ある部族だ。
アル・エアル・マイムを作ったのは彼らの祖先ではないか、という伝説もある。真偽のほどは判らない。
――定まった住居を作らず、スケイルバックを飼いならして砂漠を遊牧しているのだったな。
俺が落ちた近くをたまたま通りかかったという訳か。
そこまで考えたところで、高梨はふと礼を言っていないことに気が付いた。彼は余計な事を考えていた自分を恥じた。
「"ガランガの方々、助けて頂きありがとうございました。自分は日本陸軍の高梨隆将大尉であります。
なんとお礼を言えばいいのか――"」
座ったまま深々と頭を垂れる。ガランガでは頭を下げることで誠意をあらわす仕草になるのだろうか、高梨はふと気になった。
男性は笑いながら両手で彼の肩を叩いた。どうやら彼の気持ちは伝わったらしい。
「"どうか顔を上げてくださいな、遠方からの客人よ。困った時に助け合うのは砂漠の慣わし、気にすることはない。"」
その言葉にどこかくすぐったい気分になった高梨は言う。
「"高梨、で構いませんよ。客人呼ばわりではまるで清水の次郎長みたいなので、少し恥ずかしいのです。"」
「"ジロチョー?それがあなたの名前なのね?"」
白いローブを着た女性が小首をかしげながら言う。高梨は反射的に答えた。
「"いや、違います。私は高梨です。清水の次郎長というのは、もののたとえで――"
「"判るぞ。要するに、タカナシ氏族のシミズ家のジロチョー殿という事だな。"」
男性は高梨の言葉をさえぎるように言うと、何事か納得するかのように深く頷いた。
その態度に高梨は通訳魔法の限界を悟った。お互いの意図を伝える魔法ではあるが、微妙な認識が間違っているに違いない。
高梨は諦めた。どの道、それほど長い間ここにいるわけではないだろう。名前は譲歩しよう。そう考えた彼は言った。
「"いや、いいです、もう。ジロチョーで。"」
彼の表情を何か誤解したのだろう、男性が高梨をいたわるように言った。
「"・・・ジロチョー殿は疲れているようだな。無理もない。細かい話はまた後にしよう。ああ、自己紹介がまだだったな。
わしの名はワッハーブ、”空を見るもの”ワッハーブだ。この二人は、ファトマとマリカだ。"」
ワッハーブの言葉に二人は片膝を付くと優雅に礼をする。その仕草に高梨は思わず見とれた。
我に帰った高梨はぎこちなく礼をする。その礼に応じるかのように女性たちは立ち上がる。
「"では、ジロチョー殿。もう少し休まれるが良い。ファトマ、夕餉の頃に起こして差し上げなさい。"」
ワッハーブの声に白いローブの女性が笑顔で頷くのが見えた。
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「おじいちゃんのコールサインが”次郎長”っていうのは知ってたけど、そんな理由だったんだ・・・
てっきり、強いからとかそういう理由だと思ってた・・・」
孫が少し呆れたように言いおった。
・・・まあ、そう思っても仕方ないのう。別に勇ましい理由とは言えんからな。
しかしのう。少々自己弁護させてもらうとしようかの。
「あれは本田さんが悪いんじゃ。この顛末を本田さんに言ったら大笑いされてなあ。
それだけならまだしも、顔をあわせるたびに”よう、次郎長殿!”という始末じゃ。
おかげさまで符牒まで”次郎長”になって、いや、されてしもうた。」
もっとも、そうなってしまえば悪いもんでもなかったのは以外じゃった。
考えてみれば、勇猛果敢な搭乗員でもなければそんなコールサインは許されんじゃろうからな。
少し気恥ずかしいとはいえ、結果としてわしにはその資格があったという事じゃろう。とは言えじゃ。
「いずれにしても、それは戦後のことじゃからな。あの時は、もうどうしようか、それしか考えておらんかった。」
うむ、砂漠の事を思い出したら喉が渇いてきたのう。日本の夏とは暑さの質が違うとはいえ、あそこも暑かったからなあ。
くーっ、美味い。麦茶は本当に美味いのう。あの場になかった事が心底悔やまれるわい。
孫は何やらメモを見ながら考え込んでおる。ふむ、何じゃろ。別に難しい話はなかったはずじゃが。
判らんことは素直に聞くのがわしの信条じゃ。聞いてみよう。
「どうしたのじゃ?何か難しかったか?」
まだ怪訝そうな表情をしておるな。一体どうしたというのじゃ?
「えーっと・・・さっきまでおじいちゃんがお話してくれたことを考えてるんだけど・・・
”アル・エアル・マイムから出撃したおじいちゃんがブルードラゴンと戦って落とされて、ガランガ族に助けられた”
っていうので合ってるよね?」
「うむ、その通りじゃ。」
判っておるではないか。何も不思議な点なぞあるまい。
・・・?むう?なんじゃ、その怪訝そうな目は?
「おかしい、ってほどじゃないけど・・・何で、ガランガ族の人たちはおじいちゃんを助けられたの?
そこで戦争してるっていうのに、暢気に遊牧とか出来るのかなあって。
そうじゃなくても、空にドラゴンが沢山いるのに、見ず知らずの人を助けたりするのかなあって・・・」
おお、そういう事か!うむ、それは確かにそのとおりじゃ。
「確かにお前の言うとおりじゃな。それは、こういう事じゃ。」
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「"カナート?自分は偶然そこに落ちたと、そういう事ですか?"」
スケイルバックのあぶり焼きを持つ手を止め、高梨は尋ねた。ワッハーブは頷き、口ひげに付いた酒をぬぐってから言った。
「"そうだ、ジロチョー殿。貴殿は偶然にも”チレーザのカナート”の採光口から地下のオアシスに落ちたのだ。
よくもまあ、ああも見事に入り込めたものよ。全ては<天秤>の望みとしか言いようもあるまい。"」
彼はそういうと笑顔を浮かべた。
高梨がガランガ族に助けられたの偶然の賜物といえた。
急降下からの引き起こし時に目の前にいたブルードラゴンから地上へと叩き落された彼の機体は砂漠へと墜落した。
その落ちた先にあったのがカナート――砂漠を縦横に走る地下水道の採光口だった。
彼の"疾風"は砂の進入を防ぐために積んであった石と煉瓦のドームに激突した。
本来であればそこで彼の人生は終っていたのだろうが、彼はついていた。
採光口の大きさは"疾風"の胴体とほぼ同じ大きさだったのだ。ドームを破壊した機体は主翼を地上に残し水道に入る形になった。
高梨が最後に聞いた金属音は、機体から翼がもぎ取られる音だったに違いない。
そして彼の"疾風"――またはその残骸――は、カナートの中に出来たオアシスへと落ちた。
採光口から入り込む光と豊富な水、何よりも地下にある事で適当な温度に保たれているそこには潅木が生い茂っている。
発動機の重みで頭から落ちていた機体は、大破しつつも胴体着陸する形で落ちることに成功していた。
このように数々の偶然が重なった結果、地上落下の衝撃はかなり緩和されていた。
お陰で、両足の骨折と打ち身以外はほとんど怪我らしい怪我をしていなかった。撃墜されたにしては奇跡的な軽症だ。
高梨は己の強運に感謝した。何か一つ間違っていれば一貫の終りだったに違いない。
「"昔から運はいいほうでしたからね。ですが、あなた方はどうしてそんな所にいたのです?"」
高梨はワッハーブに話しかけた。彼は鳶色の瞳に悪戯な光をこめて言った。
「"我等遊牧民にとって、カナートは水の供給源であると同時に人やモノを運ぶ水路でもある。
その中でも”チレーザのカナート”は重要な水路でな。であるが故に、整備が欠かせないのだよ。
おぬしのように採光口を壊してしまう輩がいるからな。"」
ワッハーブはそういうと高梨のばつが悪そうな表情を見て呵呵大笑する。
「"だがジロチョー殿、そんな事は良い。貴殿の命が助かっただけで、まずは目出度いというもの。
まずは生きている事を祝おうではないか。"」
彼はそういうと高梨を抱き寄せて背中を叩いた。高梨は戸惑いながらも同じ事をして返す。ワッハーブは叫んだ。
「"”百万世界の彼方”から来た客人に、乾杯!"」
昭和二十年六月ニ十三日 ガランガ族集落
「"ジロチョー、随分歩けるようになったわね。"」
白いローブを着たファティマがいつもと変わらない明るい口調で言った。
「"ええ。だいぶ筋肉が戻ってきたようです。あとニ、三日あれば走ることも出来そうですよ。"」
「"そう、良かったわ。でもあんまり走らないで。またカナートを壊されたらたまらないわ。"」
ファティマは鈴を転がすような声で笑った。その言葉にガランガ族と同じローブ姿の高梨は苦笑して頭を掻いた。
救助されてから約四ヶ月。高梨はいまだガランガ族と行動を共にしていた。彼は直にでも原隊へ復帰するつもりだったのだが――
「"ジロチョー殿、誠に申し訳ないが、それは暫くは無理だ。"」
アル・エアル・マイムに何とか向うことは出来ないだろうか、そういった高梨に向ってワッハーブは言った。
「"貴殿の両足は折れている。治療魔法も使ってはおるが、いずれにしても時間はかかる。
少なくとも、”蝙蝠の月”――ああ、他所の暦だと六月か、それまではここに居てもらう。"」
何か言いたそうな高梨に向って、ワッハーブはなおも言い募った。
「"第一、ここからアル・エアル・マイムまでは200マイル以上も離れている。
歩いていくのは不可能ではないが、砂漠での歩き方を知らん貴殿を一人で行かせるわけにもいかん。
それに――"」
ワッハーブは空を仰いだ。高梨もつられて空を見上げる。雲ひとつない青い空が眩しい。
「"その時になれば、貴殿と同じ”百万世界の彼方”からの客人が現れるはずだ。その者と共に帰るほうが良いだろう。"」
「"何故、そんな事が判るのです?"」
高梨はワッハーブに問いかけた。"新世界"に来て以来、預言者の類は既に見慣れている。
だがこれは俄かに信じる事は出来なかった。定住地を持たないガランガ族のもとに日本人が来るなどと考えられないからだ。
ましてや――
「"今、我々は大協約と交戦中なのです。戦争中に、ここまでくるような酔狂な日本人がいるとは思えません。"」
「"だが、間違いない。空がわしそう告げておる。それが<天秤>の意志なのだ。"」
ワッハーブは自信に溢れた口調で続けた。
「"これが何を意味しているのかは判らん。だが”空をみるもの”として<天秤>の意志を見間違えることは無い。"」
高梨はワッハーブとの会話を思い出しながら天幕に立てかけていた角竜の大腿骨を使った松葉杖を取る。
ファティマの脇にずっと控えていたマリカがフードの奥深くからその様子をじっと見つめていた。
高梨は松葉杖をほんの補助程度に用いつつ自分にあてがわれた天幕へと向う。
――歩くのももうほとんど問題がない。随分休んだお陰で、体力的にはむしろ向上したかもしれん。
ワッハーブ殿には悪いが、もう少ししたらアル・エアル・マイムに向うとしよう。
歩きながら彼はそう思った。ここでの生活は非常に快適だったが、そこに惑溺するわけにはいかない。
空中要塞との戦闘がどうなっているか、ここには全く情報が入ってこない。
ガランガ族のような遊牧民と砂漠都市国家群とは距離を置いた生活をしている。余程の事がなければお互いに交わる事がない。
今回は”余程の事”ではないか、高梨はそう思ってはいる。だが、現実としては何の情報も入ってきていなかったのだ。
天幕にたどり着き、椅子に腰を下ろした高梨は魔法で光水晶に灯りをつけた。
――後でワッハーブ殿に誰か道案内を貸してもらえるかを交渉しないとな。
角竜一頭と案内役を用意してもらう必要があるが、俺にそれに見合う対価が何か出せるだろうか――
高梨はガランガ族と共に過ごしたこの四ヶ月の経験から角竜と人員が相当に高価なことを知った。
その巨体でどのような力仕事でもこなし、かつ餌はほんの少量の草で済む角竜は貴重な存在だった。
天幕を含む生活用具一式を背負う角竜無しでは遊牧自体が成り立たないだろう。
人員の貴重さについては言うまでもない。ここでは無駄な人間など一人もいない。
誰かが欠けるということは、そのまま集落の力が落ちるという事でもある。
――それ故に彼らは命の貴重さを良く判っている。だからこそ見ず知らずの俺に情けをかけてくれているに違いない。
そんな彼らに、見合うようなものを何か差し出す事が出来るのだろうか
薄く淡い水晶の青い光が瞬くのを見ながら、彼は自分が軍人でしかない事に半ば苛立ちすら感じていた。
高梨は舌打ちとともに立ち上がって水晶に魔力を込めて灯りを消した。
こんな薄暗いところにいるから碌でもない事を考えてしまう。そう思った彼は天幕を出ようとして立ち止まった。
遠くから何か唸るような音が聞こえてきているのに気が付いたのだ。
集落の者も気が付いたのだろう、彼らの言葉で何事かするどい命令が飛んでいるのが判った。
敵襲かもしれない、高梨はふと思った。もしかすると、我が軍が破れ、残党狩りが始まったのかもしれない。
――だとすればこうしていられない。皆に迷惑を掛けるわけにはいかない。
彼はローブを脱ぎ、天幕の片隅にたたんでおいた飛行服に袖を通した。この気候で飛行服を着るのはどうかと思うがしかたない。
下手に逃げ隠れした方がガランガ族の皆に迷惑がかかる、そう考えた彼は懐に収めた拳銃の重みを感じつつ天幕を出る。
彼と同じ事をガランガ族も考えたのだろう。若い衆が慌しい様子で角竜に魔道砲をつけている姿が見えた。
男たちは手に手に槍や斧を構えながら、角竜の頭蓋骨を使って作った即席の障害物を設置している。
次第に東方から近づいてくる砂煙が大きくなってきていた。敵はかなりの速度で地上を疾駆しているようだ、高梨は思った。
濁点の多いガランガ族の言葉で、一際高い声が発せられた。何事かの警報に違いない。高梨は思わず叫んだ。
「"奴等の狙いは自分です!自分が出頭すれば、皆さんには危害は加えられないでしょう!どうか武器をおさめてください!"」
集落の外周部で防衛線構築の指揮を執っていたワッハーブが即座に怒鳴り返すのが聞こえた。
「"馬鹿を言ってはいかん!貴殿は我等の客人!客人の敵は我等の敵だ!ここで貴殿を差し出したりすれば、末代までの恥!"」
高梨は辺りにいるガランガ族を見た。全員が彼に頷きかけた。彼らもワッハーブと同じ意見のようだ。
彼が何を言っても、ガランガ族は意見を変えることはないだろう。こうなっては仕方がない。
高梨はワッハーブがいる最前線まで行き、彼に軽く頷きかけてから近くにあった角竜の頭蓋骨の影にもぐりこんだ。
拳銃を取り出し、薬室に弾を送って安全装置を解除する。
――折角助かった命ではあるが、こうなった上は一人でも多くの敵兵を道ずれにここで散るのも人生か。
いつでも撃てる状態にした拳銃を眺めながら高梨は覚悟を固め、砂煙の方に意識を集中させた。
しかし、高梨はすぐに違和感に気が付いた。砂煙を上げて近づいてきている影が放つ音に聞き覚えがあったのだ。
彼は耳を澄ました。次の瞬間、彼は大きく目を見開く。
「おおい、おおい、おおい!」
突然大声を上げて立ち上がった高梨をガランガ族の者たちが驚いた顔で見つめる。彼は興奮した口調でワッハーブに言った。
「"あれは自動車です!日の丸も見える、間違いない!私の同朋が来てくれたんです!"」
事態を飲み込むまでしばし静寂が訪れた後、歓声がガランガ族の集落を包んだ。
砂煙の正体は数両のトラックだった。トラックは集落の外縁部で次々と停車する。
戦闘の車両から降りてきた、禿頭に眼鏡の人物に高梨は見覚えがあった。
「貴官は確か高梨大尉だったな?”長い腕”の弟子で、戦闘機乗りの。何故こんなところにいるのだ?」
想定外の事態に戸惑い、半ば感極まって硬直していた彼は辻正信の言葉で我に帰り、慌てて敬礼する。
「辻中・・・大佐殿ではありませんか?どうしてこのようなところに?」
襟の徽章が変わっていたことに気が付いた高梨は辻の階級を途中で言い換えながら、やっとの思いで言葉を発した。
辻は意地の悪い表情をすると、明らかに冗談と判る口調で返す。
「最初に質問したのは自分だ。まず答えるべきは貴官だと思うがな。」
「失礼しました!自分は二月の空戦で撃墜されて骨折し、このガランガ族の方々に治療されていたのであります!」
高梨は反射的に直立不動の体勢を取りながら報告した。やや端折ってはいるが、言葉にすればこういう事だ。
四ヶ月も軍人をしていなかった割にはちゃんとできるものだ、彼はふとそう思った。
「そうか、苦労をかけたな。貴官が勇敢に戦ったこと、司令部には間違いなく報告しておく。」
辻は真剣な表情で頷くと彼の肩をやさしく叩いた。高梨はこみ上げてくる涙をこらえた。
辻は高梨との挨拶を終えると集落の方に向き直った。直後、流暢なガランガ語で叫ぶ。
「ボボ ビ ”ゴサゾリスロボ” ド ジョダセス ベンジ ガ ギスザズ。
ヅギヅベバガサ ゴダズベ ギダギボド ガ ガシラグ!」
ガランガ族の目が一斉にワッハーブに注がれる。彼は両手を広げて辻に近づくと彼に抱きついた。辻も抱き返して背中を叩く。
ワッハーブは言葉を発する。純粋のガランガ語だ。通訳魔法の効果は切れているようで、何を言っているのか高梨には判らない。
「ガサンガボガド ビジョグボゴ。ガバダザバビガ ロブデビゼボボビ ビダボバ?」
辻はそれに答える。その発音はよどみなく、高梨が聞く限りは生粋のガランガ族とほとんど遜色がない。
「パダギザ ビゾングンダギガ ツジ マサノブ。<ガギギショゾ> ロドレデ ボボビ ビラギダ。」
「<ガギギショゾ>?バゼ ゴセ ゾ ギデデギス?」
ワッハーブは顔を曇らせた。辻はなおも言い募った。
「ガスジド ビグバガギラギダ。ガバダダヂ ロジョブ ゴゾンジボ ザズ。」
高梨はあまりの事にあっけに取られながらその光景を見ている事しか出来なかった。
彼は四ヶ月この集落に滞在していたが、ガランガ族とは通訳魔法を通してしか会話していないため、片言でしか話せない。
しかし辻は明らかに意味を理解した上で彼らの言葉で会話していた。
――さすがに陸大出は頭の中身が違う。俺が何ヶ月かかっても覚えられなかったのに、大したものだ。
・・・いや、辻大佐殿が特別なのか?魔法のことも見抜いていたしな。
そもそも、大佐殿が一体なにをしにここへ来たのかを聞くのを忘れてしまった。
何か途轍もない事がおきているのかもしれない
高梨はふとそう思った。
辻とワッハーブの間で何事か合意が取れたのだろう。二人は手をとってしきりに頷きあっている。
ワッハーブは傍にいたマリカに何事かを伝えた。フードが小さく揺れ、その奥からそれにしたがって呪文を唱える。
辺りに居た全ての人物が光に包まれた。通訳魔法が全体に掛かったのだ。
「"ジロチョー、あのツジという男は何物だ?"」
光が消えると同時に近くに居たガランガ族の若者が話しかけてきた。通訳魔法が掛かるの待ち望んでいたに違いない。
若者は高梨が答えるのを待ちきれないのだろう。興奮した面持ちで続ける。
「"ジロチョー、良かったな!これでお前も国に帰れるというもんだ!"」
高梨がどう答えたものか思案しているうちに、ワッハーブは全員に告げた。
「"皆の者、今日は宴だ。”百万世界の彼方”から来た客人たちを盛大にもてなすのだ!"」
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「辻さんって頭良いんだねえ・・・」
孫はしきりに関心しておる。うむ。あの頭の良さは半端ではなかったな。
「全くじゃな。陸大を優秀な成績で出ておる人にそう言っていいのかわからんが、とにかく凄かった。
あのめんどくさいガランガ語をあんな短期間で覚えてしまうんじゃからな。
流石に"作戦の神様"というのは伊達ではない、そう思ったもんじゃ。」
今はガランガ語文法について詳しいものがいるからアレじゃが、当時はそんなものはなかったしな。
第一、異なる言語を持つもの同士で会話する時には通訳魔法を使うのが普通じゃ。
それを使わないというのは本当に珍しいことじゃ。
孫もそれを思ったのじゃろうな、不思議な顔をしておる。
「でも、辻さんって魔法使えたんでしょ?なんで通訳魔法をつかわないでガランガ語でお話したんだろ?」
まあ、当然の疑問じゃな。とはいえじゃ。
「通訳魔法だと何か不都合があったんじゃろ。もっとも、わしにもわからん。
まあ、中曽根君にしても辻さんにしても、総理大臣になるような輩は頭の中身が違うんじゃろうな。
つまりは、そういう事じゃろ」
孫は首をかしげながら尋ねおった。
「そもそも、辻さんは何しに来たの?おじいちゃんを助けに来たわけじゃないんだよね?」
うーむ、それじゃがなあ・・・まあええ、正直に言うとしよう。
「辻さんには、その時は教えてもらえんかった。」
「他の人は?トラック何台かできてたんでしょ?一人くらいは教えてくれそうな気がするけど。」
まあ、普通はそうなんじゃろうがな。あいつ等は特別じゃった。
「そうもいかんかったんじゃよ。何しろ、辻さん以外は全員が中野学校出身者でな・・・」
「中野学校・・・って、”零零七号”とかでも有名な、あの中野学校?”」
何で映画の話が最初に出てくるかのう。小学生じゃから仕方がないか。
「そうそう、その中野学校じゃ。つまり、全員がスパイじゃった訳じゃな。
当然、わしのような見ず知らずの搭乗員風情に詳しい話をしてくれるはずも無いわけでな。」
「ふうん。」
あんまり納得しておらんな。まあ、ええじゃろ。
「まあ、そういう事情がわかった以上はわしも深入りはしなかった。首をつっこんでも良い事がないからな。
わしにとって大事なことは、辻さんと一緒に同朋のもとに帰れる、それだけじゃった。」
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昭和二十年七月ニ日 ガランガ族集落
彼は辻大佐たちと共にトラックでダーブラ・クアに向うことになっていた。
無線で確認を取ったところ、四七戦隊は内地帰還のために丁度ダーブラ・クアにいるのが判ったためだ。
話によれば、七月末に予定されている船便で内地に帰還するのだという。
この集落での辻大佐の”用事”は一週間程度で済むものらしいいため、時期的にも丁度良い格好になったのだ。
そして、今日。ガランガ族と共に過ごすこと約五ヶ月、とうとう高梨はこの集落を後にすることになった。
飛行服に身を包んだ高梨は別れを告げるべくワッハーブの元を訪れていた。
ワッハーブは鮮やかなローブと宝石のついた帯という正装で高梨を迎えてくれた。
彼の旅立ちを祝ってくれているのだろう。高梨は彼が今まで見せてくれた友情に最大限の感謝を込めながら言った。
「"ワッハーブ殿、今までありがとうございました。見ず知らずの異国人にここまでの厚情、感謝のしようもありません。"」
”空をみるもの”は軽く微笑み、彼の目を真っ直ぐに見たまま両手を握り締めて言う。
「"なんの、我等は砂漠に生きるものとして当然の事をしたまでよ。"」
高梨は何か言おうとするが、こみ上げてくるものによって言葉にならなかった。彼はやっとの思い出微笑み返す。
ワッハーブは穏やかな表情で高梨を見ると、懐から何かを取り出して彼の右手に握らせた。それほど大きくない、何か丸いものだ。
「"ジロチョー殿、これをもって行くがよい。"」
高梨は掌を開けて渡されたものを見た。勾玉のような形をした、鈍く輝く、何か金属で出来たものだ。
「"それは”輝竜珠”だ。竜騎士の必需品だ。我等には無用の長物でもある。貴殿に差し上げよう。
いずれ必ず役に立つ時が来るはずだ。わしが空をよむ限り、それが<天秤>の意志だ。"」
高梨は文句を言わず受け取った。<天秤>の意思を引き合いに出したワッハーブは引き下がらないというのを彼は学んでいたのだ。
頷いた彼が”輝竜珠”をポケットにしまうのを見届けたワッハーブが言った。
「"ではな、ジロチョー殿。このガランガでの経験が、貴殿の人生において役に立つことを祈っておるよ。"」
「"ワッハーブ殿も、お元気で。"」
彼らは抱き合い、お互いの背中をたたきあった。
高梨はトラックに乗り、荷台から色気のある敬礼をワッハーブたちに送る。ガランガ族は手を上げてそれに答えた。
トラックが動き始める。ゆれる荷台の上で彼は倒れないように足を踏ん張りながら敬礼を続けた。
次第に遠ざかる天幕の群れは砂と岩とに紛れ、徐々に見えなくなる。天幕が完全に見えなくなってから高梨は腰を下ろした。
そうして深くため息をつく。日本に帰れるというのをこれ程嬉しいと思ったことはない、高梨は思った。
どこまでも続く砂漠を、トラックは安定した足取りで危なげなく進んでいく。
もっとゆれるなりエンジンが故障するなりすると思っていた高梨にとって、それは意外な出来事だった。
――俺の知っているトラックはもう少し壊れ易いものだった筈だが。ゆれも少ないし、全体的に作りが良くなったんだろうか。
彼がそんなことを考える間にも周りの景色は――代わり映えしないなりに――移り変わっていく。
はじめは景色を眺めていた高梨も次第に退屈していった。所在なげに動かした手が飛行服のポケットに触れる。
何か硬いものの感触があった。ワッハーブの言葉を思い出した高梨はポケットから”輝竜珠”を取り出して眺めた。
丸い頭から先細りの尻尾が生え、その尻尾が頭の方を向く形――勾玉のような形をしている。
大きさは頭が直径一センチ、尾の長さが二センチほどと小さいものだ。厚みは一センチほどで、頭の部分に穴が開いていた。
特筆すべきはその色合いだった。黄金とも白銀とも赤胴とも取れる不思議な光を放っているのだ。
――竜騎士の必需品という事だが、肝心の使い方を聞いていないな。
まあ、ここに紐も通せそうだし、そうでなくてもお守り袋にでも入れておけば良いか。
”輝竜珠”を再びポケットに戻した彼は、トラックに同乗していたファトマが驚いたように彼に声をかけた。
「"”輝竜珠”?ワッハーブが貴方に渡したの?"」
ファトマとマリカは高梨と共にトラックに乗ってダーブラ・クアに向っていた。
高梨を見送るためではない。詳しくは聞かされていないが、辻大佐の任務に関わる事に違いないだろう。
辻大佐と彼女達がワッハーブを加えた四名が打合せを繰り返しているのを高梨は目撃していた。
彼女達は大きな背嚢を持参していた。おそらく、長期の任務になるのだろう。
とはいえ詳しい話を聴こうとは思わなかった。高梨は、空戦以外で面倒なことに関わるつもりはなかったのだ。
「"ええ、<天秤>の意思だと言って。正直何の事だか判りませんが、言われたとおり肌身離さず持っておくことにしますよ。"」
そう答えた高梨はマリカが彼のほうをじっと見つめているのに気が付いた。高梨が何か言うより早くマリカが口を開く。
「"それを貸して、竜騎士殿。そのままでは使えない。私が、貴方とその”輝竜珠”を繋ぎます。"」
――竜騎士、か。確かに戦闘機に乗っているのだから、そうともいえるのだろう。
とはいえ、俺はジェシカ達とは違う。そもそも”俺の竜”がいないのだから、竜騎士にはなりようがないがな。
高梨はそう思いながらも”輝竜珠”をマリカに渡した。彼女が何かしたいというのならそれも良いだろう、そう考えたのだ。
”輝竜珠”を手にしたマリカが何事かをつぶやく。それに応えるように”輝竜珠”は虹色に輝く光を発した。
光は次第に強くなり、とても正視できない程に輝いたかと思うと唐突に消えた。彼女は頷くと”輝竜珠”を高梨に返す。
受け取った彼は”輝竜珠”が脈打っているのを感じた。彼が驚くと同時にその感触は治まり、元の冷たい金属の地肌を取り戻す。
おそらく加護魔法の類をかけてくれたのだろう、そう思った高梨はマリカに感謝の言葉を述べると”輝竜珠”をポケットに納めた。
昭和二十年七月十日 ダーブラ・クア
四百キロの距離を一週間かけ――砂漠の道なき道を進むのはそれほどの難行だったのだ――トラックの群れは港町にたどり着いた。
このまま船で暗黒大陸に向うという辻大佐たちとは街の入り口で別れ、高梨は四七戦隊の皆が待つ駐屯地に向った。
辻大佐から、空中要塞は数ヶ月前に撤退し、それにともないこの戦線は同盟軍の勝利に終ったと聞いていた。
相当激しい攻防があったのだろう、焼け焦げた煉瓦作りの建物が立ち並ぶ街を見ながら高梨は思った。
三階建て以上の建物は何一つ見当たらない。両軍による砲爆撃で破壊されてしまったに違いない。
だが、街とそこに生きる人たちは逞しかった。これほどまでに破壊されてしまった街だったが、活気に満ち溢れていたのだ。
重戦車らしきものが擱坐している横で肉を吊るして焼いている行商人がいた。戦車が看板代わりらしく、結構な繁盛ぶりだ。
街のあちこちにはいまだ土嚢が積まれたままになっているが、それをそのまま簡易住宅に応用しているものも居た。
高梨は人間の逞しさに賞賛と――半ば呆れがない交ぜになった微笑みを浮かべながら駐屯地の門をくぐった。
高梨をいち早く見つけたのは石井曹長だった。
何か工具箱のようなものを持っていた彼はそれを放り投げるようにして高梨のもとに駆けつける。
「中隊長殿!よくぞご無事で!」
石井のその声を聞きつけた四七戦隊の面々が集まり始めた。口々に勝手なことを言い始める。
「おお、足がある。確かに生きているようだ。しかもなんだ、随分血色が良いぞ。肉ばかり食っていたに違いない。」
「大尉殿、もう戻ってこられないかと思って万寿を少し飲んでしまいましたよ。まだ少し残ってますがね。」
高梨が苦笑しているところに黒江が近づいてきた。階級章が少佐のそれに変わっている。
黒江少佐は高梨をまじまじと見つめると、搾り出すように声を出す。
「高梨、本当に生きていたのだな。辻大佐から連絡を受けた時はてっきり何かの間違いだと思っていたが・・・
よく戻ってきてくれた。本当に、よく戻ってきてくれた・・・」
彼は高梨の手を取ると涙ぐんだ。いつの間にか、四七戦隊の面々も静かになっていた。
高梨はその場の空気に涙腺が緩みそうになるのを感じながらも責任を果たすべく言った。
「ところで、坂川戦隊長殿はどちらにおられますか?帰還のご報告をせねばならんかと思いますので・・・」
彼の言葉を聞いた黒江少佐はなぜか唇をかみ締めた。高梨が訝っていると、彼はため息をつく。
「そうか、高梨。貴様は知らんのだったな。・・・坂川少佐殿はここにはいない。一足早く、日本に帰ったのだ。」
「ああ、色々と忙しい方でしたからね。きっと何か、我々には判らないような――」
高梨の言葉を黒江少佐は手を振ってさえぎった。そうしてから胸中に溜まったものを吐き出すかのように一気に言った。
「そうではない。坂川少佐は戦死された。白木の箱に入って日本に帰ったのだ。今は・・・靖国にいる筈だ。」
高梨の生還を祝うささやかな宴に出た後、彼はあてがわれた部屋に戻ると荷物の整理を始めた。
アル・エアル・マイムから独立飛行四十七戦隊が撤退する際に、彼の荷物も一緒に引き上げてくれていたのだ。
「何となく、貴様が戻ってくるような気がしていたからな。自分でも、何でそう思っていたのかは判らんが。」
高梨は黒江少佐が笑いながら言った言葉を思い出していた。
――戻ってくるような気がしていた、か。信じていてくれたのだな。ありがたいことだ。
途中で帰還を諦めそうになったとはとても言い出せないな。
高梨は衣嚢袋を探りながら思った。やがて目当てのものを見つけ、袋から取り出す。
取り出されたのは一冊の帳面だ。表紙には大して上手くない字で”日記”と書かれている。
軍に入る際に父親が言った”いつ死ぬか判らんのだから、遺書代わりに日記をつけておけ”という言いつけを守っているのだ。
彼は表紙を暫く眺めてから頁をめくる。頁をめくるにつれて様々な事が思い出された。
満州からの帰還時に船からみたドラゴン。大転進とドラゴンによる横須賀空襲。バレノアでの二式単戦での空戦。
がめついムルニネブイ商人。東方大陸でのワイバーンとの戦い。ヴァーリでの決戦。
福生での"疾風"の開発に伴う苦労話。砂漠への移動。ブルードラゴンとの再戦と伊橋の戦死。
どの一頁を取り出して見ても、どの一行のからも様々な事が思い出された。親父が言ったのも嘘ではないな、彼はそう思った。
とうとう帳面は何も書かれていない空白の頁を示した。
文字が書いてある最後の部分、日記の最後は彼が撃墜される前日のものだ。そこにはこう書いてあった。
『明日は愈々敵航空部隊と雌雄を決する一大決戦なれば、激戦は必至である。
敵空中要塞を退け、驕敵を討ち、我等護国の鬼とならん。』
彼はそれを眺めた後、数ヶ月前に途絶えたところから続きを書くことにした。暫く考えた後、簡潔に記す。
『我、原隊に復帰し、内地に向う。空中要塞は既に砂漠にその姿なし。』
彼は日記帳をしまい、窓から空を見上げた。
夜空には月がかかっている。灼熱の暑気は既に去り、夜風にはかすかな潮の香りが混じっている。
誰かがアコーディオンを引いているのが微かに聞こえた。高梨は耳を澄ます。曲は「誰か故郷を想わざる」だった。
――そうだ。俺たちは、故郷のために戦うのだ。ただ、それだけのために。
メロディにあわせて歌詞を口ずさみながら、彼はそう思っていた。
初出:2010年5月23日(日) 修正:2010年5月30日(日)