昭和18年4月18日 新日本海海上

高梨達は日本郵船のアムリエル――横浜間の定期客船に乗り、ほぼ一年ぶりに日本の地を目指していた。
かつての日本海は荒海として知られていたが、"新しい"日本海はベタ凪に近いほど凪いでいる。
海に慣れていない高梨達のような乗客にとってはありがたいことだった。
水平線上遠くに積乱雲が見えるが、快晴といって差し支えない天候の中、定期客船は日本に向かっている。

「この海は晴れる事が多くて助かりますよ。自分は船が苦手なんです。」
小さな巨漢である伊橋軍曹が笑顔で言う。彼はロシモフ行きの時にほんの少し時化ただけで船酔いするほど船が苦手だった。
こんな男が空中では”曲乗り伊橋”と呼ばれるほどに自由自在の機動を見せるのだから人間は分からない、高梨はそう思った。
「まあ、そうだな。貴様がへたばったんでは、俺も好敵手を失うことになるからな。頼むから船酔いなんかで死なないでくれよ。」
石井軍曹が茶々を入れる。そのへらず口と油断する癖がなければもっと優れた搭乗員なのに、高梨はいつもそう思っている。
なにやら言い争いをはじめた彼らを横目で見ながら高梨は苦笑した。彼らにとってはいつもの"余興"だった。
高梨はそのまま空を見上げた。抜けるような青い空だった。
「しかし、この船も数奇な運命をたどってますよね。」
言い争いが終ったのか、伊橋が独語するように言った。
「確かに。我々もかなりのもんだとは思うが、この船ほどじゃないだろう。」
珍しいことに、即座に石井が同意する。

彼らが乗っている船の名は”シャルンホルスト”。
日本郵船が昭和17年にドイツ大使館から――形だけとはいえまだ存在しているのだ――買い取った、元ドイツ船籍の船だ。
一時は海軍に徴用される筈だったが、海軍が新造艦を揃える方針に転換したために民間船籍に留まっていると高梨は聞いていた。
「ドイツから日本に来て、戦争で帰れなくなったと思ったら"大転進"に巻き込まれ、だからな。
 この船を作ったドイツ人達も、流石に想像していなかっただろうよ。」
高梨は言いながら思った。とはいえ、石井は言いすぎかもしれん。我々だって充分に数奇な運命をたどっている。
戦争に巻き込まれて祖国に帰れなくなった客船と、ドラゴンと空戦を行う戦闘機搭乗員とをどう比べればいいのかは分からないが。
「まあ、何にせよあと少しで日本だ。・・・我々が守るべき国だ。」
高梨の言葉に石井と伊橋が頷く。彼等は”数奇な運命”を負わされた祖国を守るために戦っているのだ。

ブレーメン――横浜間の定期航路のために作られたドイツ客船は、青空の下で船首から白波を立てて航路を進む。
彼女は生まれたのとは全く異なる世界の海を、生まれた時に目指すべきとされた同じ横浜に向けて航海していた。

数日後、彼等は横浜に着いた。
”シャルンホルスト”自体は博多や神戸にも停泊したのだが、横浜で下船するように命令を受けていたのだ。
――如何に戦争が内地から遠い所で行われているとはいえ、緊張感が違いすぎるな。
長閑な港の光景を見て高梨は思った。とても"全世界を巻き込んだ戦争"における当事国とは思えない。だが――
「ここでは戦争の影響なんて無いんですね。良かった。」
石井がつぶやくように言った言葉に高梨は心から同意した。
昭南島――旧名、バレノア島――から始まり、ムルニネブイ、ロシモフと転戦して守ろうとしていたものこそ、銃後の安寧なのだ。

彼は港を見回した。辺りにいる人々の大半は日本人だが、同盟国の人間も――非人間種族も含めて――多い。
大半の同盟国人はローブを着たりマントを羽織ったりしていたが、一部には変わった格好をしているものも多い。
カッフェーの女給にも見える西洋女中の姿、頭に三角の耳をつけスカートから尻尾が飛び出ている猫人少女はまだ理解できる。
だが、髷を結って浴衣を着た銀髪赤眼や、上半身を晒しで巻いて褌しか身につけていない耳の尖った女性達もいる。
明らかに日本文化の影響をうけている。日本見物に来て、何がしか取り入れて祖国に帰るところなのだろう。
おそらくシルバードラゴンは関取に、エルフ女性は裸祭りから着想を得たに違いない。
髷と浴衣はシルバードラゴンに良く似合っていたし、エルフ女性に褌も不思議なほどしっくりと馴染んでいたのが救いだ。
めまいがする思いで眼を逸らした高梨だったが、そこで彼の目は羽織袴を着たミノタウロスの姿を捉えた。
彼は首を振った。妙に似合っているのが何故か悔しいが、幾らなんでもこれは無いだろう。

そう思った高梨は気分を変えようと倉庫街のほうに目を凝らした。
なにやら倉庫の前には多数の輸送車が見える。トラックに混じりオート三輪の姿も見える。
ただ、それらの車両の大半は高梨が知っている車種よりも大型だ。特にオート三輪はかなり大きい。
並んでいるトラックとの大きさの比較から見るとトン単位の荷物も輸送できるのかもしれない。
――基本が単車だから真っ直ぐ進む分には良いが、曲がるのは大変そうだな。
高梨はふとそんな感想をいだいた。

起重機が大型貨物を"新世界"船籍の大型船――何か巨大な生物の抜け殻もに見えるのでそれと判る――に積み込んでいる。
その起重機にしても以前みたものよりも大型だ。良く見れば、その腕は何らか大型蟹の殻で補強されているように見える。
もしかすると"新世界"の魔法と日本の科学とが融合したものの一つの形なのかも知れなかった。

高梨は、日本がこの"新世界"で確実に地位を得て発展しつつあるのを実感していた。

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「まあ、あの命令はおそらく手違いだったわけじゃがな。」
「どういう事?」
孫が目を丸くして言いおった。うむ、いい反応じゃ。
「本来、わしらは陸軍の特殊船――ああ、今で言うところの戦略機動軍の強襲揚陸艦じゃ、それで帰るはずじゃった。
 多分行きと同じ"神州丸"だったのじゃろうな。あの頃盛んに行き来しておったからなあ。」
「じゃあ、それが何で・・・」
うむ、まったくじゃ。わしらもこの命令を受けた時に同じに思ったからのう。
「それがじゃなあ、わしら一行とどこぞの宮様のご一行とが間違われたらしいのじゃ。
 本来、”シャルンホルスト”にはムルニネブイに見物に行っていた宮様士官の方々が乗るはずだったのじゃ。
 ・・・まあ、お陰で随分といい部屋で船旅を満喫できたのう。」
あの時は本当に楽な船旅じゃったなあ。飯も美味かったし。
「・・・じゃあ、その"宮様士官"の人たちは・・・」
「おそらく"神州丸"に乗せられたんじゃろうな。」
かわいそう、孫はそうつぶやいた。こいつは本当に優しい子じゃ。じゃが、その感想はちぃとばかりどうかのう。

「これは、不敬罪に当たるかもしれんが・・・あの当時の"宮様士官"は玉石混交が激しくてな。
 いい人は素晴らしいんじゃが、駄目な人はとことん駄目じゃった。兵隊を召使かなにかと考えとった"宮様士官"もいたしな。
 そういう人達は、結局のところ軍人には向いておらんかったんじゃろうな。」
こういう事をおおっぴらに言えるようになったというのは"戦後社会"の良い所の一つかもしれん。
当時の社会でこんな事を孫に言ったらどうなっておったことか。特高がくるわい。
孫はまだ腑に落ちない顔をしておる。まあ、戦後、天皇陛下のご意向で皇族も宮様も随分少なくなったからのう。
こればかりは感覚じゃから、もうこの世代では判らんのかもしれん。

「おじいちゃんが日本を離れていたのが一年ちょっとでしょ?その間にそんなに変わってたの?」
何とか折り合いをつけたのじゃろう、孫が聞いてきおった。
「うむ、それはもうトンでもなく変わっておったぞ。少なくとも、わしが覚えとった頃の横浜港とはエライ違いじゃった。
 自動車も増えておったし、何より船が違っておったな。それより前は鉄や木の船じゃったが、あんとき既に生体構造船が多かったからのう。」
あの、微妙にテカテカした感じに最初は違和感があったのう。船なのに何か生物の気配があるのには今でも慣れん。
数年エーテルにつけておけばほぼ新品にまで自己修復できる便利さから現代でも使われておるし、悪い作りではないのじゃが。
「そんな感じで横浜に下りて、福生へと向かおうとしておったのじゃがな・・・」

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「さて、航空審査部に向かうわけだが・・・ここからどうするか、だな。」
高梨は独語した。それを聞きつけた石井が尋ねる。
「どういう事でありますか、高梨大尉殿。」
「この命令書によれば、明日の1000に出頭すれば良いらしい。だが、今はまだ0900だ。
 丸一日以上空いているのだが、だからといって今日行ってもな・・・」
着任日以前に行って居場所があるかは判らない。軍隊とは実戦部隊であると同時に官僚機構の一部でもあるからだ。
おそらく、今日行っても結局は明日もう一度行く事になる筈だ。彼は二人に自分の懸念を説明し、二人も納得したようだった。
「かといって物見遊山をしているわけにもいかないしな。どうしたものか・・・」

高梨は煙草入れからチェリーを一本を取り出して"着火呪文"を唱えた。たちまち左手親指の先に小さな火が灯る。
彼はチェリーを銜えると親指の先にともった火をつけた。その様子を見ていた伊橋軍曹が声をかける。
「大尉殿はよく魔法を使えますね・・・自分も練習しているのですが、なかなか出来ません。」
高梨大尉は笑いながら答えた。
「これは決まった呪文を唱えるだけだから、随分簡単だ。それに、魔法でつけた火で吸う煙草というのはなかなか美味いぞ。
 ”"着火呪文"一つできずに魔法剣術を覚えることなど不可能です!”とまで言われたら、覚えるほかあるまい。
 このくらいしないと、ジェシカ特務大尉に随分しごかれた分の元は取れないからな。
 まあ、それでも――」
「貴様は魔法を使えるのか?」
唐突に、高梨の後ろから声をかけたものがいた。高梨は驚きながら振り返る。男が一人立っていた。
禿頭で眼鏡を掛けた、40がらみの男だ。怜悧な顔立ちではあるが、油断ならない空気を放っている。
階級章は中佐を示している。参謀飾緒を下げていることに気が付いた。
――参謀中佐とは、また厄介な。
彼は面倒ごとにならないようにと念じながら答えた。
「はい、中佐殿。簡単な魔法だけですが、使えます。同盟軍と行動を共にしている間に覚えました。」
「貴様の魔法からはドラゴンの匂いを感じるぞ。誰に教わった?」
――なんで、この中佐殿は魔法の匂いが判る?魔法を修めていないものには判らないはずだ。まさか、この人も――
考えながらも高梨は答えた。
「ジェシカ・ディ・ルーカ、銀竜騎士団の団員です。課業外の時間に魔法剣術を教わっていたのです。」
「・・・なるほど、"長い腕のジェシカ"が師というわけか。それなら判る。いや、しかし・・・」
・・・ジェシカに二つ名があったのか。しかし、中佐殿は何故それを知っているのだろう。高梨は疑問に思った。

「良いのでありますか、中佐殿?」
「構わない。貴官らには聞きたいこともあるしな。」
参謀本部差し回しの車の中で高梨大尉は恐縮した様子で言った。
実際は恐縮しているわけでなく、早くこの参謀中佐から離れたいだけであったのだが、彼はそうは取らなかったらしい。
「そうかしこまらんでも良い。何もとって食おうというわけではない。
 貴官らはドラゴンとの空戦を経験しているのだろう?その時の話を詳しく聞かせて欲しいのだ。
 それに、福生に行くのは明日なのだろう?特に問題あるまい。大丈夫だ。この辻正信があちこち話を通しておくから、安心しろ。」
ありがた迷惑とはこの事だ。高梨は辻に気取られないようにしながら軽く呻いた。

車は昼前には三宅坂に着いた。辻は何がそれほど気に入ったのか、参謀本部の一角で高梨達と昼食もそこそこに話していた。
はじめの三十分ほど高梨の魔法について話した後、彼は竜との空戦について根掘り葉掘り尋ねた。
苦労した点は何か、脅威だった点は何か、優越している点はあるか――
高梨達の回答に辻中佐はいちいち頷きながらメモを取っている。何かの作戦に役立てるためだろう。
十一時三十分から昼食をはさんで行われていた"聞き取り"は、十六時を回った頃にようやく終った。
辻は大方予想通りだな、そうつぶやいたあとで言った。
「ヴァーリで見ていたのとそれほどの差は無いな。だが、こうして話を聴けて良かった。感謝している。」
「中佐殿もあの戦いに参加されていたのですか?」
その高梨の問に、辻は頷きながら応じた。
「夜襲部隊にも参加していた。この傷は――」
彼はやおら上着を脱ぎだす。高梨達が唖然とするのをよそに、彼は半裸になって続けた。
「これは、大協約軍のトロールの槍がかすった時に出来た傷だ。そしてこっちは、弓兵の放ったクロスボウが刺さった後だな。
 それだけではない。この身体には他にもロシアの弾や英米が供与した大陸匪賊どもの弾も入っているぞ。
 ここの傷が――」
高梨達には、次第に盛り上がり始めた辻を止める事は出来なかった。

「・・・凄い方でしたね。聞きしに勝るとはこの事です。」
辻中佐が手配してくれた九段下にある小さな宿屋で石井軍曹が言った。結局、彼等は三時間近く辻の"武勇伝"を聞かされたのだ。
この宿に着いた時には既に二十時を回っていたのだ。彼らは急いで夕飯と風呂を済ませた。
「"作戦の神様"だから、ある意味、当然ともいえるがな・・・ともかく、明日は早い。もう寝るとしよう。」
車が迎えに来てくれるとはいえ、福生に1000につく為には朝は早い。久しぶりの日本を堪能する間もなく、彼等は床についた。

明け方に宿に迎えに来た車に乗り込んだ彼等は、予定通りに福生飛行場――陸軍航空審査部に到着した。
中はかなり広い。敷地面積六十万坪以上は伊達ではない。
長さ1200メートル、幅50メートルの滑走路は、完成当時"東洋一"を喧伝されただけの事はある。
各種の航空機が盛んに李発着を繰り返していた。その中には海軍機の塗装をした機体も混じっている。
横須賀の海軍施設のうち、航空機開発施設もここに集まっているかのようだった。
――日本陸海軍の総力がここにあるのか。いまやここは"世界一の"軍用機開発施設というわけだな。
彼等はそんな感想を抱きながら、一足先に帰国していた加藤敏雄大佐のもとに向かう。着任の挨拶をするためだ。
高梨は飛行場の上空を見た。海軍塗装を施された紡錘形の単発機――試作邀撃戦闘機だろう――が高速で飛行していた。

「高梨大尉以下三名、航空審査部に着任いたします。」
「うむ、よく来てくれた。しかし――」
高梨達の挨拶もそこそこに、加藤大佐は言った。
「辻中佐から三名お借りします、という連絡があったときは驚いたぞ。昨日は一緒にいたのだろう?どういう関係だ?」
「はあ、自分が魔法で煙草に火をつけたところ、たまたま居合わせた辻中佐殿がそれを見て・・・」
高梨は一部始終を語った。はじめは怪訝そうな顔をしていた加藤大佐だったが、やがて納得したように頷いた。
「辻中佐は"作戦の神様"だからな。色々と気になることもあるのだろう。
 まあ、あまり深入りしないことだな。」
加藤大佐はそういって続けた。
「早速、明日から試験飛行を担当してもらう。今日のところはこの航空審査部内を見て回るといい。宿舎は手配してある。
 明日からは試験飛行をやってもらう。キ八四は最大速度が700キロを超える飛行機だからな。驚くなよ。」

――ムルニネブイのルビードラゴン施設も相当に巨大だったが、ここもそれほど引けを取るわけではないな。
高梨は思った。彼が話に聞いていた福生飛行場よりも相当に大きくなっているようだ。
三年前に開場したときは陸軍だけの施設に過ぎなかった福生飛行場。
だが、昭和十六年十二月八日の横須賀空襲で空技廠が被害を受けて以来、海軍の航空機開発部隊もこの地で開発を行うことになったのだ。
表向きには"玉音放送"に伴う陸海軍の協力体制の構築、産業の合理化に伴う処置とされていたが――
――親の仇のようにいがみ合っていた組織が、僅か二年でここまでの協力体制を築くというのは・・・いかにも不自然だ。
 やはり、泊少佐殿や坂川少佐殿の言う、"我々"が――
ばかばかしい、高梨はその考えを振り払った。
――今はまだ戦争中だ。それに、悪い方向に進んでいるわけではない。難しい事は、全て終った後で考えればいい。

彼等は加藤大佐の言葉をいい事に様々な場所に足を運んだ。基地には陸海軍双方の軍用機がある。

先ほど上空を飛んでいたのと同じ型だろう、胴体が極端に太い海軍機があった。
整備員がなにやら取り付いて作業している。どうも発動機を機首ではなく胴体に近いほうに積んでいるようだ。
二式単戦"鍾馗"のように胴体後半を絞ったやり方とは違う方法論で高速を目指しているのだろう。
高梨は一式陸上攻撃機も同じような胴体の形をしていた事を思い出した。よく見れば何となく通ずるものがある。
あれは三菱の機体だったから、この戦闘機も三菱の戦闘機なのだろうか。

小柄な機体が二つ並んでいた。同じような機体だが、片方はどこか外国製のように感じられた。
おそらく、全体的な印象が丸いか四角いかの違いだろう。積んでいる発動機が違うせいかもしれない。
丸いほうの小型機は発信準備をしていたらしい。プロペラが回ったかと思うと、驚くほど短い距離で飛び立った。
幅50メートルの滑走路を斜めに使い――おそらく80メートル前後で――飛び立っていったのだ。
練習機か何かに違いない。あの短距離で離陸できるのは凄い、高梨は感心した。

機首が丸い、中翼の大型機が駐機場に置いてあった。おそらく新式の重爆なのだろう。
だが、あまり整備されているようには見えない。そもそも置いてあるのか、放置しているのかは微妙なところだ。
あまりに大きすぎて格納庫に入らず、放置されているだけなのかもしれない。

双発の機体がある。丸みを帯びた、しかし尖った機首はガラス張りになっている。かなり良好な下方視界を持つものと思われた。
機首からみると段がついたようになったところもガラス張りになっている。ここが操縦席だろうか。
機体の中央後ろ寄りには旋回機銃が見える。実際は爆撃機なのだろう。どことなく百式重爆に似ているところからもそれが覗える。
だが、全体から受ける印象は爆撃機にふさわしくない俊敏なものだった。どちらかというと二式複戦に近いものがある。
きっと曲芸飛行も出来るに違いない、高梨はそう感じた。

単発機がある。複座であるところからすると軽爆か襲撃機だろう。塗装から見ると海軍機だ。高梨はその特徴ある翼を見つめた。
主翼が"くの字"になっている。翼には胴体から少しの間は下向きの、ある一点からは緩やかな上向きの傾斜がかかっていた。
高梨はふと、写真で見たことのあるスツーカを思い浮かべた。翼の形はまるで違うが、何か通ずるものがある。
あれは降爆だったから、これも降爆なのだろうか。だが、高梨はその機体にどこか戦闘機のような雰囲気も感じていた。

飛行機乗りであれば興味をそそる機体ばかりが基地にはあった。高梨達はそれらを飽くことなく見学していった。

他にも見るべきものはあったが、彼等は加藤大佐の言う「700キロ出るという新型機」キ八四を探すことにした。
何しろ明日から乗る機体なのだ。早くに見ておくほうがいいはずだ。
高梨達は何人かに質問を繰り返しながら、とうとうキ八四が整備を受けている場所までたどり着いた。

そこにあったのはどちらかというと地味な印象を与える機体だった。
正面から一見した印象は二式単戦のようだった。発動機から搭乗席にいたる機体の丸みがそれを感じさせているのかもしれない。
だが、全体的な印象は少し違う。その機体が機体が二式単戦よりも大型だというのも影響はあるだろう。
キ八四は全幅、全長ともにキ四四――"鍾馗"よりも一回りは大きいだろう。
"胴体にとってつけただけ"にも見える二式単戦の翼と比べるのは間違いなのかもしれないが、主翼は明らかに"鍾馗"よりも大きい。
翼面積の向上に伴い、空中での機動性は随分向上しているに違いない。
ドラゴンと旋回格闘戦を行うような事は無いだろうが、機動性が高くて悪いようなことはほとんど無いだろう。高梨はそう思った。
そして、二式単戦と何よりも印象が違うのがその胴体だ。
"鍾馗"が胴体をこれでもかとばかりに急激に絞り込んでいるが、キ八四は胴を緩やかに絞り込むやり方をしている。
彼はその胴部を見てどことなく海軍の零式艦上戦闘機と似ていると感じた。これも陸海軍融和が生み出したものだろうか。
全体的に、どこを見ても堅実な戦闘機に見えた。二式単戦では肩肘張っていた部分が、良い具合に力が抜けているのだ。
しかし、特に新しい要素はあまり見当たらない。これらが総合して"地味な"印象を与えているのだろう。
彼等は幾分落胆した。無意識のうち、何か一目で分かるような特徴があるものと期待していたのだ。

そんな気分を面に出さないように苦労しながら、機体の整備がひと段落したのを見計らって近くにいた男に尋ねた。
服装からして、中島飛行機の人間らしい。名札には"糸川"と書かれていた。
「これが噂のキ84ですか。700キロ出るというのは本当ですか?」
陸軍航空審査部に着任した高梨はその機体を見ながら言った。加藤大佐の言うのが正しければ、この機体で間違いないだろう。
「それは流石に無理です。ですが、軽荷状態で発動機の調子がよければ687キロまでは出しました。」
機体を整備していた中島の技術者は事も無げに言った。それでも、二式単戦や三式戦の全力速度とは桁が違う。
驚く高梨達に彼は言葉を継いだ。
「とは言っても、それを出したのは試作一号機ですからね。改良すれば700キロは出るかもしれません。
 一号機も良い機体ですが、やはり最初に作った機体ですから、改良点はまだ多いと思っています。」

――まあ、馬には乗ってみよ、だな。一つ試してみよう。
高梨はそう思った。

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「聞きしに勝る、というのはあのことじゃろうなあ。いや、懐かしいのう。」
初めて乗ったハチヨンの試作機――確か試作三号機じゃったが、あれは良かったのう。

「どう凄かったの?」
孫が尋ねおる。そうじゃな、色々じゃ。まだこいつは飛行機乗りでないから、伝わるかは分からんが・・・
「まず、操縦桿が重かった。これには驚いたぞ。」
「操縦桿って、軽いほうがいいんじゃないの?重かったら操縦しにくくなるでしょ?」
まあ、誰でもそう思うわな。
「基本的にはそうじゃ。じゃが、良いことばかりではないのじゃ。そうじゃなあ・・・
 軽い棒と思い棒、二本の棒を持っておったとしよう。どっちが振り回し易いと思う?」
「そりゃあ、軽い棒でしょ?」
「そうじゃ。そして、それが操縦感が重い理由の答えなのじゃ。」
孫は目を丸くしたまま固まっておる。うむ、わしもそんな顔をしたような記憶があるぞ。
「つまり、"振り回しにくくするため"わざと重くしたのじゃ。要するにじゃ。
 棒を振り回しておると”ポキッ”と真ん中から折れてしまう事があるじゃろう?飛行機も同じなのじゃ。」
厳密に言うと違うのかも知れんが、相手は小学生じゃからな。
「それを防ごうと思ったら、棒を頑丈にするしかない。じゃが、そうすると重くなるじゃろ?
 重くなってしまえば、振り回せなくなってしまう。”振り回そうと思えばできる”と”振り回せない”の間には差があるからな。
 そんな訳で、搭乗員がやたらに機体を"振り回す"のを防ぐためにも操縦桿を重くしたというわけじゃ。」
ふむ、判ったような判らんような表情じゃな。まあ無理もあるまい。

「じゃが、確かに振り回せはせなんだが、じゃからといって別に鈍重な飛行機だった訳ではないぞ。
 横転性能は相当のもんじゃったしからのう。」
それまでの日本戦闘機とは明らかに段違いの横転性能じゃったな。あれはエルロンが改良されたのが大きいのじゃろうが。
何でもドイツから来たメッサーシュミット社のテストパイロットから得た情報も元になっておるらしいがな。
「じゃあ、あんまり問題は無かったんだね?」
メモ片手に孫が尋ねおる。いや、ところがじゃ。
「そうでもない。試作機のうちは、発動機が――ああ、エンジンがあんまり良くなかったのじゃ。
 額面どおりの二千馬力が出るエンジンと出ないエンジンがあったりしてな。安定するまで暫くかかったかのう。
 その間、わしらはとにかくハチヨンに――試製疾風に乗っておったなあ。」

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初出:2010年2月28日(日) 修正:2010年5月25日(火)


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