昭和18年2月8日

地上から見る空は雲量七。雲が相当に多い。天候識別上は晴れではあるが、大抵の人の認識では曇りになるだろう。
だが、高度六千を飛ぶ高梨達からは雲海が遥か下に見えるだけだ。ここまで上がってくれば、地上から見る雲量などは関係ない。
その中を独立第四十七飛行戦隊第二中隊――高梨隆将大尉率いる中隊が飛行していた。
「いいか、今回の"敵"は中々の強敵だぞ。気を抜くなよ!」
高梨の檄に彼の列機が応じる。

「任せてください、中隊長殿!連中に厳しさってものを教えてやりますよ!」
石井慧太曹長が言った。軽薄に聞こえる言葉だが、どこか不思議な説得力があった。
小柄でどことなくひ弱な印象とも相まって軽く見られる事もある彼だが、ひとたび空に上がればその印象はがらりと変わる。
肉薄攻撃と急降下での一撃離脱を得意とする彼は、猛者ぞろいの四七戦隊の中でも注目株の若手である。
強引で力任せなところもあるが、それは"小細工をしない"戦闘機である二式単戦"鍾馗"での戦いに向いているとも言えた。

「石井さんが極端なことをしなければ、簡単にはやられませんよ。」
伊橋剛曹長が石井の発言に応じた。身長は低いが相撲取りのような身体をした男だ。
どうみても砲兵か歩兵か、いずれにしても重厚な兵科の図体だ。とても軽快さが身上の航空兵には見えない。
実際に、基地の外で誰何された際に航空兵と信じてもらえず憲兵に拘束されかかった事もある。
しかし実力は折り紙つきだ。その体躯とは裏腹に、敵の意表をつく華麗な空戦機動が売り物である。
本来は軽戦向きの乗り方なのだろうが、それを二式単戦でこなすのが彼の得意とするところであった。

「伊橋、言うじゃないか。この前、模擬戦でコテンパンにしてやったのを忘れたのか?」
石井がからかうように言った。すかさず伊橋が返す。
「そういう心が油断を招くんですよ。あのときだって、最終的に勝利と判定されたのは自分でしたしね。」
石井のうめき声が通信機越しに聞こえる。体型も正確も異なるこの二人は親友といえる関係だった。
だが、こと空に上がれば話は違った。お互いをこそ最強の好敵手と認識していたのだ。
高梨は二人のやり取りに苦笑しながら言った。
「気合が入っているのは分かったから、そこまでにしておけ。そろそろ交戦空域に入る。
 この"鍾馗"こそが最高の戦闘機だということを思い知らせてやれ!」
通信機が了解、の声を返す。その声を聞きながら高梨はスロットルを開く。中隊長機に続き、"鍾馗"の群れは突撃を開始した。

高梨は前方に何か光るものを見つけた。間違いなく"敵"だろう。彼が何か言おうとした刹那、石井からの通信が入る。
「二時の方向に敵編隊発見。敵数、制空隊六。後方に爆撃隊を伴う模様。」
高梨は感心した。彼も敵制空隊は見つけていたが石井のほうがほんの少しだけ早かったようだ。
戦闘機乗りにとっての目のよさは単純な視力の良さではない。
もちろん、それも重要な要素ではあるが、全体としての"目の付け所"が一番大事だった。
石井はそれを持ち合わせているようだ。とはいえ――
「石井曹長、まだ甘いな。十時の方向、高度八千を良く見ろ。"アレ"が待ち構えている。」
高梨は答えながら首を僅かに傾けて二千メートル上空を見た。かすかにだが雲を引きつつ飛んでいる"何か"が見える。彼は続けた。
「おそらくあそこに見える制空隊と爆撃隊は囮だ。殺到した瞬間、"アレ"が奇襲してくるに違いない。」
一拍おいて命じる。
「とはいえ、高度において我々は不利だ。爆撃隊に一撃を加えた後に急降下で雲海に離脱し、"ヤツラ"の出方を見る。」

四七戦隊第二中隊は高梨の命令を忠実に実行した。先行する制空隊を無視し、爆撃隊にのみ攻撃を集中させる。
爆撃隊は距離三千でこちらに気が付いたようだが、既に最高速に近い五百八十キロ以上で突撃を行っていた"鍾馗"をかわす事は出来なかった。
爆撃隊は次々と"撃墜"されていく。怒り狂う敵制空隊の攻撃をかわしつつ、二式単戦は雲海に突入する。
高度四千五百。とはいえ、視界はほとんど雲で遮られている。列機さえ見えない状況では、流石に空戦機動を行うわけにはいかない。
そのまま雲海を抜けた先には、"アレ"が急降下している姿があった。"鍾馗"を追従するだけでなく、先回りしようとしているらしい。
「馬鹿な!」
石井が叫ぶのが通信機越しに聞こえる。
が、現実は変わらない。"アレ"は、"鍾馗"の降下制限である時速六百五十キロを越える速度で降下したに違いない。
"敵"はそのまま強引に旋回する。"アレ"は銀色に光る頭部の大きな口と巨大な牙を光らせながらこちらに接近し、攻撃をしかけて――

「石井さん!」
伊橋が叫ぶ声が通信機から流れた。その言葉どおり、第二中隊第一小隊二番機、石井の機体が"撃墜"されていた。
高梨は聞こえないように小さく舌打ちする。ここで石井を失うとは想像もしていなかった。
――こちらとて油断していたわけではない。"アレ"は、思ったより出来る。
必死に追従しようとする"鍾馗"をあざ笑うかの如く、上空から接近してきた"アレ"の群れは彼らを置き去りにして降下を続ける。
優に八百五十キロ以上は出ているに違いなかった。とはいえ――
――この機動で、敵は高度を失っている。降下速度においては不利だが、上昇速度ではこちらが優位のはずだ。
高梨はそう考えながら敵を追尾を続けた。彼はまだ諦めていない。

共に下降を終えたのは高度三千でのことだった。濃密な大気の中で彼等は再び戦闘を始まろうしている。
彼等はお互いに正面から向き合い急速に距離を詰めると、あっという間にすれ違っていく。相対速度は千キロを超えるだろう。
共に一撃離脱を意図しているせいもあり、高速でのすれ違いがしばし続く。
基本的に、空戦は後ろを取ったほうが有利とはいえ、それ以前に――

――やはり、お互いがお互いを視認している状況では中々勝負がつかないな。
高梨は思った。やはり、航空戦闘において一番重要なのは"いかに先に敵を見つけるか"なのだ。
その意味ではこの戦いは厳しいものだった。互いを認識しあっている以上、何かに差が無ければ千日手にもなりかねない。
ただし、二式単戦はその高速性能を出すために航続距離を犠牲にしている。
このまま単純に戦闘機動を続けていたのでは先に音を上げる事になるのは高梨の第二中隊になるだろう。

――爆撃隊のあらかたは撃墜し終えている。あとは、ここから脱出すれば良いだけだが、このままでは・・・
そう考えていた高梨に伊橋から通信が入る。
「"ヤツ"ら、降下速度の割りには水平速度はそれほど速くないようです。上昇力も、こちらの方がやや優位のように見えます。」
「だが、"アレ"を操るものたちはそれを知っているぞ。こちらの土俵に上がるほど馬鹿ではあるまい。」
高梨は伊橋の言う内容には気がついていたが、今のところ如何ともし難かった。
"アレ"はその降下性能を生かし、僅かに勝る最大速度と相まって四七戦隊第二中隊に付け入る隙を与えていない。
錬度がそれなりに高いのだろう。高梨は舌打ちした。今、ここでは迷惑な話でしかなかった。
そう思う間にもお"一撃離脱"は続く。お互いに水平に、あるいは垂直にと全力でぶつかり合う。
とはいえ、いつまでもこのような機動を繰り返しているわけにはいかなかった。

何度目かの機動の後、高梨は気がついた。
僅かではあるが、旋回性能ではこちらが上のようだ。ほんの少しでは有るが、光明が差した気がした。
――旋回性能は高くない。いくらかこちらが上のようだな。・・・試してみるか。
若干ループを描くような機動を取る。その交差もすれ違うだけで終っていたが、今までとは異なっていた。
僅かだが内側に切れ込むことに成功したのだ。高梨は確信とともに中隊に命令を下す。
「旋回しながら上昇し、"アレ"を追い詰める。全機続け!」
二式単戦の群れはバレルロールを描きながら"敵"を追いかけ始めた。"敵"もその意図するところに気が付いたものの、逃れる事は出来ない。
いや、逃れようとしたものも居たが、それは各個撃破の機会を与えただけだった。編隊から外れた"アレ"は次々と"撃墜"されていく。
高梨達は反撃に成功した。先ほどの降下戦闘の借りを返す事が出来たのだ。

彼等は"ヤツ"らを追い散らしながら、"敵"の爆撃隊が位置する高度五千まで上昇した。
「第一小隊と第二小隊は適当なところで"アレ"から離れろ!残りの爆撃隊を殲滅する!」
高梨は言うや否や爆撃隊に機首を巡らせる。第二中隊の第一、第二の二個小隊がそれに従う。
最初の一撃で半数以上を失っていた爆撃隊は、この高梨の行動で全滅させられていた。
"アレ"も撤退していく。護衛すべき対象を失った"敵"制空隊にはもはや存在価値はないからだ。
戦闘は終った。高梨達、独立飛行四十七戦隊第二中隊は"敵"の爆撃意図をくじき、"作戦"の目的を達成したのだ。
「状況終了。戦果集計を行う。演習参加全機体はそのまま現空域で待機せよ。」
喜びに浸る暇もなく、坂川少佐の声が通信機越しに聞こえた。

「最初の六八戦隊の突撃で青軍、四七戦隊第二中隊第一小隊二番機及び第三小隊三番機、撃破。
 低空での四七戦隊の反撃で赤軍、六八戦隊第一中隊二番機、三番機、第二小隊一番機、二番機、三番機、撃破。
 赤軍の爆撃隊、壊滅か。まずまずの戦果だな。」
合同空戦演習の判定官を勤める独立飛行第四十七戦隊戦隊長、坂川少佐の冷静な声が無線機から聞こえる。
「中々やりますね、"アレ"は。」
悔しそうに低空からついてくる四七戦隊第二中隊第一小隊二番機――石井機を見ていた高梨は、伊橋のその声に答えた。
「"アレ"――キ六一の降下限界速度は八百五十キロだ。貴様等にはあえて伝えていなかったがな。とにかく、頑丈な機体だ。」

坂川少佐と共に地上でこの"空戦演習"を見守っている四七戦隊先任中隊長の黒江大尉が言った。
「まだ演習は終っていないぞ。気を抜くな。」
そうだ。この"空戦演習"は燃料の許す限り続けられる。今度は――
「今度は、貴様等が"護衛隊"だ。海軍さんの爆撃隊をしっかり護衛しろよ。」
黒江大尉の言葉に坂川少佐が続けた。
「飛行第六十八戦隊の下山戦隊長はとんでもない檄を飛ばしている。次も負けたら訓練を倍にするそうだ。
 六八戦隊だけが倍では割に合わんからな。貴様等も負けたら訓練は倍だ。いいな。」
笑いを含んだ声ではあるが、おそらく目は笑っていないのだろう。高梨は気を引き締めた。
「隣の天幕から怒鳴り声が聞こえなくなった。おそらく、集計と――叱咤が終わったようだな。そろそろ始めるぞ。」
その言葉どおり、六八戦隊――増加試作型のキ六一を装備する部隊も損害集計を終えたらしく、体制を立て直しつつあるのが見える。
高梨は気を引き締めた。これは言ってみれば"対抗戦"だ。四七戦隊の、"ウィスプ部隊"の名に掛けて負けるわけにはいかない。
「全機、気合を入れろ!演習と思うな、潰すつもりでやれ!」
通信機から怒涛のような”応”という声が聞こえる。二つの戦隊はにらみ合いながら戦闘空域へと移動していった。

攻守ところを変えて演習は繰り返されたが、結果はお互いに満足いくものではなかった。
確かにキ六一の方が降下速度も早く、高高度性能が良い。かれらはその機体性能を生かして二式単戦を翻弄した。
そして、"鍾馗"を翻弄したままに主任務である"爆撃機の撃破"に成功していたのだ。
"鍾馗"に護衛されていた一式陸攻の群れは、なすすべなくキ六一に蹂躙され全滅させられていた。
まるで役者を変えただけの芝居のように、結果が裏返されただけであった。
「やはり、重戦闘機での爆撃機護衛には無理があるのかもしれません。
 一撃離脱を旨とする重戦闘機と、爆撃機に"はりついて"戦う事が要求される護衛戦闘機では用途が違うのです。
 キ四四、キ六一といった重戦闘機での爆撃機護衛は諦め、陸軍でも零戦を――爆撃機護衛用に設計された戦闘機を使うべきでは?」
士官以上をあつめて開催された"反省会"の冒頭、坂川少佐はそのように述べた。
この言葉に飛行第六十八戦隊の下山登令戦隊長も大きく頷く。
「ロクイチの真価は、むしろ迎撃戦闘で発揮されます。坂川少佐の前で言うのもなんですが――」
彼は独立第四十七飛行戦隊の戦隊長が苦笑しているのを見ながら続けた。
「単純な接近と急降下というだけなら、二式単戦よりも高空性能と降下速度に勝るロクイチが有利です。
 もっとも上昇性能自体は劣りますし、液令発動機は整備の面で割を食うのは確かですから、単純には言い兼ねますが。」
自然と視線が高梨に集まる。彼は挙手をして発言許可を得ると言った。
「確かに、下山少佐殿の言葉どおり、キ六一は中々の強敵でした。それは確かです。
 ですが、自分もキ六一はどちらかといえば邀撃機向きの機体ではないかと感じました。
 爆撃機の護衛は坂川少佐殿の仰るように零戦か、あるいは一式戦の性能向上型で行うべきではないでしょうか。」

このやり取りを聞いた陸軍航空審査部の加藤敏雄大佐は苦い顔をしていた。
「やはりそうか。・・・ロクイチには期待がかかっていたのだがな。」
加藤大佐が描いていた結末とはあまりに違っていたのだろう。彼はため息をつきながら続ける。
「二式単戦は確かに良い戦闘機だが、いかんせんアシが短い。純粋な制空戦闘には良いが、爆撃隊の護衛には不足だ。
 いかに一撃離脱性能に優れ、最大速度が六百キロを越えても、行動半径が三百キロ程度ではな。」
彼はそこで言葉を切ると、会議室の窓越しに見えるキ六一を見ながら言った。発動機に整備員が取り付いている。
「キ六一は最大速度においてキ四四に若干勝り、航続距離においては凌駕し、高空性能においては文句が無い。
 機首のマウザー砲も強力だ。爆撃隊の護衛にはもってこいだと思っていたのだがな・・・。」
「まだ駄目だと決まったわけではないでしょう。幸い、燃料も機材もまだまだ余裕があります。
 状況訓練を積み重ねていけば、もしかすると解決の糸口がつかめるかもしれません。我々には、まだ時間があります。」
坂川少佐が言った。確かに日本軍単独での東方大陸遠征が不可能な以上、ここで錬度を高めて"時"を待つしかないだろう。

ロシモフに展開していた”日本軍大陸同盟派遣団航空部隊”がムルニネブイに帰還したのは11月中旬だった。
10月1日からロシモフ西部国境への進軍を開始した大協約部隊に対して反撃しつつ後退する同盟軍。
高梨達は、当然、この戦闘に投入されると考えていたのだが――
「西部国境には向かわない?どういう事ですか?」
ヴァーリ臨時第二飛行場の天幕のなかで高梨は反射的に尋ねていた。彼個人としては出撃の準備は整っている。
それに、つい先日も三木をはじめとする日本軍機が西部国境に行った実績もある。
いけないはずが無い、彼は層考えていた。
壇上に並んで立っていた飛行第六十四戦隊の加藤中佐と坂川少佐は苦笑するように唇を歪める。
加藤中佐が深いため息をつきながら言った。
「結局は、燃料と弾薬が輸送できない、ということだ。それが準備できるまでは、錬度を高めつつ、待つしかない。」

西部国境から進軍してくる大協約軍――西方大陸の軍勢にポラス国軍及び徴用された東方大陸人が加わったもの――の総数は三百万を優に超えていた。
いかにルビードラゴンという"究極の陸上決戦兵力"があるとはいえ、千マイル以上――北極海から<凪の海>にまで及ぶ長大な戦線を維持するには戦力が少なすぎた。
すでに同盟参謀本部は戦線の縮小を決定しており、西部国境から逃げるように遠ざかっている。
その地域の都市住人をかばいながらの逃走ではあったが、奇跡的なことに被害はそれほど出ていない。
とはいえ、現場は混乱を極めているといえる。いかに損害が出ていないとはいえ、撤退戦闘であることには変わりは無い。
今のところ大協約軍の動きはそれほど早くはない――ルビードラゴンによる奇襲を恐れていると思われた――が、いつ急襲されるか分からない状況であることには変わりない。
そして、その混乱の最中に日本軍が必要とするだけの兵站を作れよう筈もなかった。
刀剣、鎧や魔道兵器の類なら即座に用意も出来るだろう。同盟にはそれだけの力がある。
しかし、日本の兵器――銃器、車輌や航空機を前線に送り届けるのはいかに同盟の国力でも困難だった。
もちろん、日本単独では絶対に不可能だ。現状ではまともな燃料輸送車が――いや、トラックですら足りない上に、兵器にしても量産体制が整っていない。
国内産業の重工業主体への切り替え計画である「第一次五ヵ年計画」が終る予定の4年後なら兎も角、現状では不可能だった。
ヴァーリ防衛戦で一躍名を上げた日本軍がいまだに大陸中央部に留まり続けているのはそれが理由だった。

坂川少佐はそのようにひとしきり現状を語った後、次のように締めた。
「現在、呂国・夢国と共同で移動燃料作成車や移動式工廠の試作、鉄道の敷設等の方法を検討している。だが実用化は未だ遠い。
 それまで我々に、日本軍に出来る事はほとんど無い。兎に角、錬度を高めて時を待つんだ。そうすれば、必ず機会は訪れる。」
四七戦隊を含む日本軍大陸同盟派遣団航空部隊がアムリエルに戻ってきたのはそうした理由だった。
幸い、燃料だけは豊富にある。希少金属が同盟国経由で大量に手に入るようになったためか発動機や機体の耐久性も高まっていた。
お陰で、毎日のように"訓練"を行う事が出来た。とはいえ、高梨には多少の疑問もあった。

「しかし、いかに演習といっても、爆撃隊の殲滅とそれを護衛する戦闘機隊の撃破などという戦闘条件は無意味ではありませんか?
 それよりも各種のドラゴンと空戦経験を積んだほうが我々も同盟軍にも利益があるのではと考えます。」
高梨は疑問に出した。坂川少佐が頷きながらこれに応じた。
「確かにそうだ。訓練である以上、適切な仮想敵を設定することが大事なことだというのは理解している。
 今の場合であれば――そうだな、ジェシカ特務大尉やアルフォンス特務大尉に依頼して、銀竜騎士団の一部を借り受けてのドラゴンとの空戦などが適切だろう。」
彼はそこでジェシカ・ディ・ルーカ男爵令嬢とその騎竜たるアルフォンスを見やった。少佐は言葉を続ける。
「だが、仮に今、もう一度"大転進"が起こり、元の世界に戻ったとしたら――いや、更に別の世界に"転進"したらどうなる?
 その世界にはドラゴンは居ない”かもしれない”。アカどもや米軍のような連中がのさばっている”かもしれない”。
 あくまで”かもしれない”話ではあるが・・・準備を怠るわけにはいかん。」
高梨は言葉に詰まり、押し黙った。もっともな話だ。ムルニネブイの学者によれば、再度の転移ははほぼ無いという話だったが――
「そもそも一つの弧状列島が丸々異世界に"転進する"というのが異常事態だからな。もう一度無いとは言い切れん。」
坂川少佐は高梨の心を読んだかのごとくに言う。高梨と同じように感じている者達への言葉でもあるのだろう。
高梨は戦隊長の言葉を受け入れる事にした。確かに、"もう一度"が無いなどとは誰にも断言できない。
「いずれにしても、備えあれば憂いなし、という事だ。・・・明日も今日と同じ演習を行う。今度は爆撃隊を守りきってくれよ。」
加藤大佐はそういうと解散を命じる。その場に居た総員は見事な敬礼でそれに答えた。

「高梨さん、なかなかに素晴らしい邀撃戦闘でしたね。」
海軍から日本軍大陸同盟派遣団航空部隊に派遣されている六空分遣隊、その指揮官である三木六蔵大尉が言った。
"ミロク菩薩"の異名をとってはいるが、高梨は羅刹の間違いだろうと確信している。空中での三木はそれほど強烈な存在だった。
ミロクの大尉は薄く微笑んでいる。これが彼の普段の表情なのだ。彼は言葉を続けた。
「最初の劣勢をどう跳ね返すかと思いましたが、やはり上昇力の違いが出ましたね。発動機の差でしょう。
 しかし、キ六一部隊の指揮官も中々優秀なようです。直後に攻守を入れ替えた戦闘での采配は見事でした。」
高梨も同意する。
「そうですね。あの中隊の指揮官とは、昔同じ部隊に居た事がありますし――」
彼がそこまで言ったときだった。"あの中隊の指揮官"が高梨に言葉をかけた。
「そりゃあ無いんじゃないか、高梨大尉殿?調布の飲み屋でおごってやったのを忘れたのか?」
「忘れる訳ないでしょう、本田さん。しかし、貴方も悪運の強い人だ。生きてるなら生きてると連絡してくれれば良いものを。」
本田は肩をすくめた。子供時代をイタリアで過ごしたという彼は、どこか西欧人のような仕草が身についている。
「仕方ないだろう。横須賀空襲で落とされ、気絶してそのまま海軍さんの病院に運ばれて、気が付いたのが昭和17年になってからだ。
 一ヶ月近く気絶してたんだからな。もう飛行機に乗れないかとも思ったくらいだ。」

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「本田のじいちゃん、そんな大変なことになってたんだ・・・」
うむ、孫は呆然としたようじゃな。そうじゃろうな。本田さんはそんな様子を微塵も見せんからのう。
「そうじゃぞ。いっつも小遣いをくれるときに"生きてるだけで儲けものじゃぞ"とか言っておるじゃろ?
 あれは、横須賀空襲の時に撃墜されたのも影響があるのじゃろうとわしは見ておる。」
とはいえ、いっつもそれを言っておるからなあ。もはや単なる口癖なのかも知れん。
それでも、孫は何か感じ入ったかのように頷く。おお、いい表情じゃ。
「そうだね、僕、本田のじいちゃんを見直しちゃった。いつも10円しかくれないから、ただのケチな人かと思ってた。
 これからは尊敬することにするよ!」
・・・本田さん、幾らなんでも今のご時世で10円はないじゃろ・・・

「・・・おじいちゃん、おじいちゃん?大丈夫?どうしたの?」
あまりのことに呆然としておったが、孫からは単にボケッとしているだけにみえたのじゃろう。
心配したのか、声をかけてくれておる。うむ、大丈夫じゃ。単に本田さんのケチに呆れとっただけじゃからな。
「ああ、心配せんでもええ。大丈夫じゃ。」
とりあえず麦茶でも飲むとしよう。うむ。少し持ち直したぞ。

「でも、本田のじいちゃん、良く生きてたねえ。ドラゴンに落とされたんでしょ?」
うむ、そのとおりじゃ。わしも始めは信じられんかったからなあ。
「場所が良かったんじゃな。いろんな意味で、のう。」
怪訝な顔をする孫に分かるように説明してやらねばいかんのう。
「まず、当たり所が良かった。方向舵と昇降舵を少しやられただけじゃったらしいのじゃな。
 じゃから、飛行機として飛ぶことは問題なく――というわけでも無かったようじゃが、なんとか出来たというわけじゃ。
 それに、落ちた場所も良かった。とにかく広い場所をという事で選んで落ちたら――そこが、偶然にも病院じゃったわけだな。
 本当に本田さんの強運には頭が下がるわい。」
孫はなにやらメモを取っておる。・・・本田さんのアレは参考にならんと思うがのう。メモを取り終わった孫が言った。
「おじいちゃん凄いね!おじいちゃんの周りの人、撃墜されても生きてる人いっぱいいるんだね!」
むう、どうじゃろうのう。言われて見ればそんなような気もするのう。じゃがなあ。
「確かに、何故かわしの周りには"撃墜されたど生きてる人"が多かった。本田さんもそうじゃったし、坂川少佐殿もそうじゃったな。
 だが、わしがツイて居たわけでもないじゃろ。あの人らの日ごろの行いがよかったんじゃろう、きっと。」
うむ、そういう事にしておこう。変な風に本田さんに伝わったら何を言われるか分からん。

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既に解散が下礼されているが、暖房の効いたこの部屋から出るのはためらわれるのか多くの士官がまだこの部屋に残っている。
高梨達もその口だった。彼は本田大尉の方を見ながら言った。
「キ六一に口と顎の絵を描くというのは、大胆というかなんと言うか・・・
 確かに、カーチスにもそういったモノが書かれていましたし、それなりに迫力はありましたが。」
本田大尉が何か言う前に、隣で聞き耳を立てていた下山少佐が苦笑を浮かべながら応じた。
「あれは”ワイバーンは口を開いている相手を本能的に怖れる”という同盟国情報が元になっているのだ。
 別に米軍の真似をしたわけではない。・・・結果として、参考にはしたがな。」
全員がジェシカ・ディ・ルーカ特務大尉とアルフォンス特務大尉に注目する。

黙々とせんべい片手にほうじ茶を啜っていた彼女達はその視線を感じたのか、顔を上げると高梨達を見る。
視線に含まれた微妙な空気を感じたのか、竜騎士とその騎竜たるシルバードラゴンは困ったような表情を浮かべた。
若干の戸惑いを浮かべながらもジェシカが答える。
「液令発動機を積んだキ六一は鼻先が尖っているでしょう?
 ああいう形状で、かつ金属色や原色の飛行物いるとすれば、それはドラゴン以外にありえません。
 少なくとも、今まではそうでした。それに口と牙を描けばよりドラゴンに見えるかと思い、提案させてもらいました。
 ワイバーンはドラゴンを本能的に忌避するので、非常に合理的な話だと思うのですが・・・」
彼女はそこで一拍おくと続けた。
「それに、日本から送られてきた雑誌にも同じような写真が載っていたので、それも参考にしました。
 雑誌は"アサヒグラフ"か"航空朝日"か"機械化"かは忘れてしまいましたが、そのどれかです。」

彼女のその返答を聞いた一同はそろって苦笑を浮かべた。不思議に思ったアルフォンスが尋ねる。
「どうしたのですか?何か良くなかったでしょうか?」
坂川少佐が――この人もまだ残っていたのだな、高梨は少しだけ可笑しく思った――とりなすように言った。
「かつて我々が居た世界の"アメリカ合衆国"という国の軍隊が同じような塗装をしていたのだ。
 "旧世界"最大の生産力を持った、科学力において我が国を大きく上回る国・・・我が国の、かつての仮想敵国の一つだ。」
まあ、貴官達には関係ない話だがな、何となく気にはなる。彼はそう言って独り言のように続けた。
「本当だったら、今頃は英米相手に戦っていたのかも知れん。"口と牙"を描いた戦闘機を相手にな。
 もしかすると残された者たちは今頃、英米相手に戦をしているのかもしれん・・・」
日本軍士官達の表情が一斉に曇った。それに気が付いた坂川少佐はそれを振り払うように声を張り上げて言う。
「今日の演習はもう終っているぞ。解散だ。各自、明日に備えろ。明日も厳しくいくぞ!」

高梨は宿舎に向かった。彼らが居ない間にもムルニネブイ臨時飛行場の増強は続けられていたのだろう。
日本軍大陸同盟派遣団航空部隊が紅玉竜駐屯地であるこの場所へと戻ってきた時、出発時には無かった建物が幾つか増えていた。
紅玉竜騎士団はロシモフ西部から暫く帰ってこないため、実質的に日本軍の基地になっていると言えよう。
どれ一つとっても立派な建物だ。急ごしらえ感はほとんど無い。元に戻せるのだろうか、高梨はそんな事がふと気になった。
彼は傍らを歩くジェシカに話しかけた。
「あんなに建物を建てても平気なんですか?・・・いや、そもそもあれは何のための施設なんです?」
防寒服を幾重にも着込んだジェシカは――冬本番とは言え着すぎだろう、高梨は思った――寒さのあまり口ごもりながら言った。
「あれは日本軍の兵器試験設備らしいですよ。アムリエルは気候が良いし、広い場所もありますからね。
 航空機だけでなく、色々な兵器があそこで実験されているようです。
 魔法と科学を融合させた武器なんかは、ここでしか実験できないようなものも多いらしいですよ。」
ジェシカに付き添っていたアルフォンスが何かを見つけたのか、建物の一つを指差しながら声をかけてきた。
「あそこの建物から中々面白そうな魔力反応を感じます。折角だから行ってみませんか?」
――航空部隊では解散が命令されたとはいえ、まだ課業中の部隊に顔を出すのは気が引ける。しかし――
高梨は誘惑に負けた。銀竜が"面白そうな魔力反応"というからには、それなりのものがあるに違いない。

建物には看板などは掲げられていなかった。だが、中を見る限りでは発動機の整備場のようだ。
作業台に載せられているのはキ六一用の液冷発動機――ハ四○に違いない。
だが、アルフォンスが興味をもったのはそれではあるまい。ハ四○には何の魔力もかかっていない筈だからだ。
銀竜が感じた魔力の発生源は、もう一つの人だかりの中心にあるものに違いなかった。
彼は眼を凝らした。しかし、そこに見えたものは――正直、何故あんなに人だかりが出来ているのか良く判らないものだった。
「何です、あれは?」
高梨は整備兵に尋ねた。整備兵たちが遠巻きに見守る中、歩兵連隊の兵士達がおかしな盾と槍をいじっていたのだ。
「カノーネランツとかいう、擲弾筒と槍を魔法で組み合わせた友軍の新兵器だそうです。ここで試験を行うらしいのですが・・・。
 正直なところ、他でやって欲しいですね。ハ四○の整備に支障をきたしかねません。」
彼はうんざりした表情で言った。無理も無い。高梨が整備兵に同情したとき、後ろから声がかかる。
「そう言わんでください。今のところ、カノーネランツをどうこうできそうな冶具が此処にしかないのです。
 冷却機構と液冷発動機の冷却機構は良く似ているのです。どうか、ご寛恕いただきたい。」
高梨が振り向くと、そこには黒いローブを着ている学者然とした年嵩の男と、金色の頭髪を持った小柄なアルビノ女性がいた。
ジェシカとアルフォンスは彼らと面識があるようだった。ジェシカは一礼して言った。
「ワグナー博士とエスメラルダ様の"作品"でしたか。であれば、これもきっと"画期的"なものなのですね。」

きょとんとする高梨にアルフォンスが説明した。
「こちらの、黒ローブのお方がワグナー・マヌエル・ゴンザレス男爵。魔法と科学に通じ、様々な発明をしています。
 代表作としては・・・そうですね、主なモノでは三つあります。
 魔力を持たぬ者でもドワーフ並の金属加工が出来るようになる"ワグナー盤"という掘削機械。
 どんなに重いものでも自在に動かせるように、歯車、滑車とホムンクルス技術を組み合わせた"超重起重機"。
 それに、何よりも・・・世界の理を解きほぐしつつある、階差歯車と魔方陣を利用した"自動計算機"。
 大協約が何かと"混沌の歯車機械"といって忌み嫌うもの全てを作り上げたのが、ここにおられるドクトル・ワグナーなのです。
 彼こそ、同盟が誇る"史上最大の魔道科学者"といえるでしょう。そして――」
小柄なアルビノ女性に向けて一礼すると続けた。
「その発明を、主に魔法面で支援されておられるのが助手のエスメラルダ様です。金竜ですが、騎士団には所属しておられません。
 このようなお姿ですが、御歳――」
そこまで言ったところでエスメラルダが口を開く。
「アルフォンス、女性の前で年齢の話をするものではなくってよ。」
アルフォンスは己の過ちを悟ったようだ。即座に姿勢を正し、青い顔を――アルビノの面をさらに青ざめさせて――エスメラルダに謝罪する。
「失礼いたしました!このご無礼は、平にご容赦のほどを――」
このやり取りを見ていたワグナー博士がからからと笑いながら言った。思ったよりも砕けた性格のようだ。
「良いではないか、エスメラルダ。別に、この銀竜とて悪気があったわけではあるまい。」
エスメラルダはまだ膨れているが、一応は納得したらしい。ワグナー博士は彼ら三人に向かっていった。
「ふむ、丁度良いところで"調整"も終ったようだな。君達、折角だからカノーネランツの実験を見ていきなさい。」

傾いた太陽が辺りを橙色に照らす。白銀の鎧に身を固めて、漆黒の盾と槍を持つ騎士の姿もその例外ではなかった。
飛行場に槍の穂先が長い影を描き出している。これから実験が始まるのだ。
「それでは、まずは"水平突き"と"砲撃"、それを交互に繰り返してください。」
エスメラルダが槍を構える騎士に告げる。騎士は盾を高く掲げてそれに応じた。次の瞬間、彼は槍を水平に突き出す。
全長二メートル、直径二十センチはあろうかという巨大な槍だったが、騎士は重さを感じさせずに標的に向けて鋭い突きを放つ。
次の瞬間、槍の穂先から轟音とともに爆炎があがる。文字通りの"砲撃"の音だ。あっという間に標的は炎に包まれた。
流石に砲撃の反動は大きいのだろう、騎士が少しだけ体勢を崩す。しかし、彼は即座に体勢を立て直すと再び水平突きと砲撃を続ける。
高梨は仰天した。"砲撃"とは何のことだろうと思っていたが、文字通りの意味だとは思わなかったのだ。
彼の驚きをよそに、ドクトル・ワグナーは顔を輝かせている。博士は騎士に向かって叫んだ。
「ここからだ。擲弾を装填し、"轟爆砲"発射準備をなせ!」

その声に答えるように、騎士は槍を垂直に立てる。そのまま立ち膝の姿勢をとると、槍の石突を強く地面に打ち付けた。
歯車と蝶番が動作する機械的な音を立てて槍が真ん中から折れる。折れたところから何か小さなものが幾つかこぼれ落ちる。
真鍮の円筒のようだ。おそらく、空薬莢だろう。大きさと形から見ると歩兵銃の銃弾の空砲らしい。
騎士が何か操作したのか、今度は何かが銃に装填されるような音が聞こえた。博士の言葉からすると、擲弾を装填したに違いない。
再び歯車と蝶番が動作する音が聞こえ、槍が何事も無かったように元に戻る。
高梨は目を見張った。どうもこれは銃――または砲――と一体化した槍のようだ。石突を打ち付ける事で装填を行うらしい。
こんな機構を有する槍など聞いた事が無かった。それどころか、想像したことすらない。
彼の驚きをよそに、騎士は槍を小脇に抱えて腰を落とし、重心を低くする。
騎士が盾を体の前面を覆うように構えると同時に、槍の穂先からトーチのような青白い炎があがり始める。
高梨が見る間に、その炎は大きくなっていき――
「今だ!」
ワグナー博士が叫んだ刹那、途轍もない爆音とともに槍から炎と衝撃波が放たれた。
それは標的をいとも簡単になぎ倒しただけでなく、"轟爆砲"を放った騎士をも五メートルほど後ずさりさせた。呆れるほどの威力だ。
「"轟爆砲"は理論通りに機能したぞ!成功だ!これで、制式化へ一歩近づいたぞ!」

高梨は何が起こったのか良く理解できなかったが、ただの擲弾の炸裂でここまでの爆発が起こるはずが無いことだけは判った。
彼は質問するためにワグナー博士のほうを見た。だが、博士は周囲の状況など気にせず哄笑を上げて転げまわっているだけだ。
とても声をかけられる様子ではない。高梨はエスメラルダに聞く事にした。
「あれは一体、どういう原理ですか?あきらかに擲弾の爆発力よりも威力が大きいように見えるのですが・・・・」
人間体の金竜は高梨に流し目をよこす。値踏みするように見つめた後、何かに納得したように頷くと言った。
「貴方はどうやら"有資格者"のようですわね。・・・わかりました、お答えしましょう。
 あの槍はミスリルの穂先と鋼の銃身から構成されています。ちなみに穂先はムルニネブイ製、銃身は日本製ですわ。
 銃身に"火精サラマンダー"を制御するルーンが描く事で、爆発力を増幅するとともにその方向性を一方向に限定しているのです。
 判り易く言えば――」
彼女は言葉を探すような表情をした。しばし沈黙した後で続ける。
「水鉄砲で水を押し出すような原理ですわね。カノーネランツの場合、押し出されるのは水ではなく炎ですけれど。
 あの盾も飾りではありません。アレが冷却装置になっているのです。どちらかを欠いてはカノーネランツは成り立ちません。」
これで分かっただろう、という表情をするエスメラルダを見て高梨は思った。
――こりゃあ、駄目だ。さっぱり分からん。それに、そもそもどの兵科がどんな状況で使う武器なのかも全く分からん。
それに、彼にはもう一つ気になる事があった。

「エスメラルダさん、先ほど"有資格者"と仰られたようですが、それは一体・・・」
彼女は少し驚いたような表情をするとジェシカとアルフォンスを交互に見る。
ジェシカ達は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているだけだ。エスメラルダはそれ見て怪訝そうに言った。
「貴女達、この方と一緒にいて気が付かないのですか?この方は――」
エスメラルダが言いかけたとき、遠くから高梨を呼ぶ声が聞こえた。彼女はため息をつくと言葉を飲み込む。
「どうやらお仲間が呼びに来たようですね。ここまでですわ。高梨さん、貴方とはまたご一緒する機会があると思います。
 そのときに、改めてご説明させていただくことにしましょう。では、ごきげんよう。」
彼女はそう言うと、まだ哄笑を続けているワグナー博士の方に向き直った。乱暴に背中を叩くと無理やり落ち着かせる。
なにやらガミガミといい始めたエスメラルダを見て高梨は苦笑した。
――助手のゴールドドラゴンという話だが・・・世話焼き女房にしか見えないな。
彼はそんな感慨を抱いたものの、それ以上博士達を観察しているわけにもいかなかった。
彼を探している声が黒江大尉のものだと気が付いたからだ。先任中隊長が第二中隊長を探している以上、重大な要件に違いない。

「高梨大尉、入ります。」
黒江大尉に連れられて行ったのは陸軍航空審査部ムルニネブイ支部の建屋にある加藤敏雄大佐の執務室だった。
さして広くないそこに、加藤大佐の他に坂川少佐、石井と伊橋までもが居る。
加藤大佐の執務室にいる以上は何かの試験についての事なのは間違いないだろう。
だが、坂川少佐と黒江大尉はともかく、石井と伊橋まで居る理由は高梨には想像がつかなかった。
「来たか。まあ、座れ。楽にしろ。」
高梨がソファに腰を下ろすと同時に加藤大佐は坂川少佐に言った。
「この三人が最優秀の小隊なのだな?」
「はい、間違いありません。石井、伊橋はクセはありますが良い搭乗員ですし、高梨も優れた士官です。自信を持って送り出せます。」
何のことだか全く分からない高梨が質問しようとした時、黒江大尉が先回りして言った。
「転属だよ。加藤大佐は俺を希望していたようだが、俺がお前達を推薦した。お前達の方がキ八四に向いていると思ってな。」
キ八四?何のことか全く判らない高梨に加藤大佐が説明する。
「今日の演習でも分かったとおり、キ四四もキ六一も爆撃機護衛には向かない。だが、これからの戦闘では護衛戦闘機も必要だ。
 そのための戦闘機こそがキ八四だ。まだ初飛行が済んだ段階だが、早急に戦力化するには現場を知る搭乗員が必要というわけだ。」
坂川少佐が締めた。
「そういうわけだ。お前達は一時的に航空審査部に転属となる。日本に向かい、キ八四の早期戦力化に貢献しろ。そして、キ八四に乗ってここに戻って来い。」
高梨は色気のある敬礼でそれに答えた。石井と伊橋もそれに続く。彼等は久しぶりに日本に帰れるという事実に胸を高鳴らせていた。

初出:2010年2月14日(日) 修正:2010年5月25日(火)


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