昭和十七年六月三日 新日本海 陸軍特殊船"神州丸"船上

"敵は幾万ありとても すべて烏合の衆なるぞ 烏合の衆にあらずとも 味方に正しき道理あり"

日本帝国陸軍所属の特殊船"神州丸"が新日本海(泥縄的な命名ではあったため遠からず改名されるとは言われている。)日本列島とムルニネブイ本島の間にある海を航海していた。
晴れ渡る青空の下と穏やかな海面。最初は物珍しかったその光景にも飽いたのか、休憩時間にも関わらず甲板上に人影は数名ほどだ。

"邪はそれ正に勝ちがたく 直は曲にぞ勝栗の 堅き心の一徹は 石に矢の立つためしあり 石に立つ矢のためしあり "

そのまばらな人影の一つが、金髪碧眼で黒い軍服を着こなした女性竏茶Wェシカ・ディ・ルーカ男爵令嬢だった。
ムルニネブイ銀竜騎士団所属で、トーア大陸同盟空中軍連絡武官として日本陸軍独立飛行四十七戦隊と行動を共にしている日本陸軍特務大尉でもある彼女は調子はずれの声で”敵は幾万”を謳っていた。

"などて恐るる事やある などてたゆとう事やある"

「・・・すみません、何か違う歌にしてくれませんか。」
独立飛行四十七戦隊第二中隊長の高梨隆将大尉はうんざりした口調で、”敵は幾万”を朗々と歌い上げる彼女に告げた。

「何故です?いい歌じゃないですか。"どれだけ敵が居ても正しい方が勝つ"という、実に単純明快な真実を謳い上げた名曲です。
 私はこの歌をはじめて聴いたときに涙しました。これだけの名曲を生み出す日本という国に、非常な感銘を受けたのです。」
「いや、そう言うことじゃないんです。こう、御国の歌とか、ほかにジェシカさんに似合う歌があるでしょう?」

彼女が「容姿端麗、文武両道、性格良し」というのは誰もが認めるところであった。だが、他にも幾つか皆の意見が一致している項目もある。
「ジェシカ、”烏合の勢”だ。”烏合の衆”じゃない。それと高梨、はっきり言ってやったらどうだ。歌が下手だから止めろ、と。」
独立飛行四十七戦隊先任中隊長の黒江大尉が笑いながら言う。彼は押しも押されぬ陸軍の竜撃墜王の一人だ。
「整備の中居さんは上手だって言ってくれましたよ?」
ジェシカが抵抗する。今度は高梨も笑いながら言った。
「アイツも歌が下手だったな。下手なヤツに上手いって褒められたという事は、下手なんですよ。」
分が悪くなった彼女は肩をすくめてそっぽを向くと、そ知らぬ顔をして違う歌を歌い始めた。

"北はアムール南は熱河 東ゃポクラよ西満州里 結ぶ絆はおいらの鉄路 明日はスパイク何処へ打つ"

――「北はアムール」か。・・・満鉄関係者の歌を何で知ってるんだ。そもそも、アムールが何処かも知らないだろうに。
高梨はため息を一つつくと目の前に広がる海原を見つめた。神州丸の艦上から広がる海はどこまでも澄み渡っていた。


「そろそろ目隠しを外しても大丈夫ですよ。」

ジェシカの騎竜、アルフォンスの声に従い日本人達は目隠しを外した。シルバードラゴンにも関わらず人間形態を好む彼だったが、今はジェシカを騎乗させて竜形態を取っている。

「・・・どの船も毎回こんな面倒なことをしているのか?」

独立飛行第四十七戦隊の戦隊長、坂川少佐が質問する。当然の質問であった。
ムルニネブイ本島の程近く、アムリエル水道に入ってからは総員が竏酎€舵員すら含めて竏注b板に集められ、目隠しをさせられていたのだ。

「はい。でもこれは、船と乗組員の安全を守るためでもあります。水道全域に呪いを掛けてあるんです。
 竜、または騎竜していない人間が目を開けていると、呪いの魔法陣を目に焼き付けて呪われてしまいます。」

呪われた結果どうなるのかを尋ねるものは居なかった。どうせ、ろくな事にはなるまい。

「ムルニネブイは商売人の国と聞いているが・・・なんでそんな物騒な仕掛けがしてあるんだ?商売の邪魔だろう?」

アルフォンスの返答に対して、整備班の長である刈谷大尉が肩の凝りをほぐしながら質問した。

”"ムルニネブイへの敵対勢力の上陸を防ぐために古代に作られた"と聞かされています。それ以上の事は、私も知りません。
 ・・・でも、便利なんですよ?同じく水道に掛かっている魔法のお陰で、港の桟橋まで自動で行けるんです。荷受の連絡も同時に行くので、着くなり荷物の上げ下ろしができます。
 もっとも、ムルニネブイ人の水先案内人が乗っていれば、の話ですけどね。”

ジェシカがアルフォンスに騎乗したまま答える。搭乗席のどこかについている拡声器から声が出ているのだろうが、巨大な竜がジェシカの声で話しているのは少し不気味だ。

「よし。間もなく港に着くだろう。上陸の準備だ。かかれ!」

坂川少佐の命令に従い、一同は上陸準備を開始した。
とても魔法で自動的に操船されているとは思えない動きで船は港に近づいていった。
これを見慣れているジェシカやアルフォンス、沖合いで乗船したムルニネブイの水先案内人は兎も角、日本人にとっては非常に物珍しい。

「おお、今舵をきったぞ。凄いな、自動でこうなるのか。」「これで人間が動かしていないとはとても信じられん。」

日本の軍人は同盟国への訪問直前ということもあり、士官は正装して艦上に集合していた。
私語を慎まなければいけない状況であるだろうが、思わず声を漏らしてしまう。
ジェシカはそれらの様子を面白げに眺める。彼女が日本に行ったときの事を思い出しているのだろう。
港を覆う目隠しのようになっている急な崖と岩山を過ぎ、港の全容が見えてきた。ジェシカは港の様子を指し示すと、少しおどけた調子で言った。

「あちらに見えるのがムルニネブイの代表的な建物、”臨海大劇場”でございます。お気に召しますでしょうか?」

日本人達はジェシカの指した方角を見る。

「素晴らしい・・・」

高梨達は絶句した。白い尖塔と貝殻のような屋根をもった美しい建物が海と空の青と見事に調和していた。
ジェシカは誇らしげに一同に告げた。

「ようこそ、ムルニネブイの首都”夢見る都”アムリエルへ。」

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「もう、そっからは大変じゃったのう。何が大変といって、もう風習から何から全部が違うからな。」
いやもう、何があったか全部思い出すのも難しいくらいあったな。

「そうだよね。ムルニネブイでは”エスカレーターは右側空ける”って聞いたことあるよ!」

孫のマサヒロが得意げに言う。ふふん、わしだってそれくらい知っておる。それにのう。

「東京でもエスカレーターは右側空けらしいぞ。どうじゃ、知っておるか?」
「知らなかった!おじいちゃんて物知りなんだね!」

そうじゃろう。ついでじゃ、もっと語ってやれ。

「まあ、当時はエスカレーターなんぞは日本にしかなかったがな。それまで世界各国は自動階段を作ってなかったのじゃ。
 お陰でエスカレーター特需になっての、メーカーは随分儲かったらしいぞ。
 特に昭和30年代にはムルニネブイ王族施設のエスカレーター工事をめぐって三菱と日立と東芝の談合がバレて国際問題に・・・」

・・・いや、そういう話ではなかったな。
わしは一体、何の話をしておったのじゃろう。随分脱線して目的を見失ってしまったのう。
とりあえず一杯麦茶を飲んで心を落ち着けよう。ふー、うまい。
・・・そうじゃ、初めて行ったムルニネブイは色々大変だったんじゃ。

「わしは中国にも満州にも行ったことがあるから、海外が初めてというわけではなかった。
 じゃが、流石にムルニネブイみたいな国には行ったことが無くてなあ。驚きの連続じゃった。
 葡萄を皮ごと食う羽目になるわ、牛肉は美味いけどなんだか生焼けだわ、耳尖がった美人が一杯いるわ、
 竜車を引く荷役龍にビックリするやら、獣人族の耳と尻尾には慣れないわ、兵隊さんはみんな鎧兜だわ、
 幽霊かと思ったら枯れた花だったわ、お爺さんが困っていたから背負ってあげたらやたら重いわ・・・」

最後の方はちょっと違う気もするが、まあ良いじゃろう。事実じゃし。

「まあ、上げればキリが無い。兎に角、大変じゃった。」

難しい顔をしていた孫が首をかしげながら聞いてきた。
「ねえおじいちゃん、聞いてもいい?」
「なんじゃ?」
「”チューゴク”とか”マンシュー”ってどこ?そんな国、聞いたこと無いよ。」

ああ、そうか。この子らは――というか、わし等の子供より下の世代は”旧世界”を知らないんじゃったなあ。

「あれじゃ、ラーメンと餃子とチャーハンを発明した”旧世界”の国じゃ。」

それほど間違っておらんじゃろう。多分。

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日本軍大陸同盟派遣団航空部隊に用意されていた基地は、大きな兵舎とベトンで固められた立派な滑走路を持つ飛行場だった。
原野での天幕暮らしを半ば覚悟していた彼らにとっては嬉しい誤算といえる。
ただ、滑走路というのには少し語弊があるかもしれない。実体は見渡す限りのベトンの平原だ。ベトンで固めてある5キロ四方の運動場というのが適切かもしれない。

「なんでこんな立派な・・・滑走路なのか、これは。兎に角、何故こんな場所があるんだ?」

高梨が誰もが思う疑問を口に出す。これほど立派な飛行場は、内地にはない。いや、米英独ソにもおそらく無いだろう。

「日本の空中部隊には真っ直ぐな硬くて広い道が必要だというのを政府に伝えたところ、ここを用意してくれました。
 ここは本来、”紅玉龍騎士団”の駐屯地です。彼らは今はロシモフとポラスの国境付近にいるので、ここは空き家なんです。」

ジェシカはしゃがみ込んで地面のベトンを手の甲で叩くと説明を続けた。

「ルビードラゴンは飛べない代わりに相当な巨体と剛力を誇ります。だから頑丈にしておかないと戦闘訓練をしただけで地面が抉れて大変な事になります。」
「それにしても大き過ぎるだろう。何も、地平線が見えるような大きさにしなくても。」

高梨は言った。彼女は苦笑すると答える。

「この大きさになるのも仕方ないんです。何しろ、大きい龍は一町分くらいになりますからね。」
なんでジェシカの距離単位表現は尺貫法なんだろう。何故約100メートルでは無いんだろうか。あまりの事に半ば呆然としながら、高梨は取り留めない感想を抱いていた。
「・・・土を固めたのじゃ駄目なのか?ベトン代も工事も大変だっただろうに。」

誰かがつぶやく。それを耳にしたアルフォンスは苦笑しながら答えた。

「綺麗好きなんですよ、ルビードラゴンは。彼らは戦場以外で泥だらけになるのを嫌がりますからね。
 ここも相当な金と時間をかけて作ったそうですよ。でも、彼らはそれに見合うだけの力を持っています。銀竜である私が保証します。」

日本人達は兵舎の脇に作られた燃料庫や整備場にも案内された。これについては別途ムルニネブイ国が国費で準備したものだそうだ。
ジェシカが語ったところによれば日本へ安くて優秀な獣人労働力を売り込む目的があるらしい。俺達には何も決定権ないのにご苦労なことだ、高梨は思った。
ひとしきり施設を回った後に解散のラッパが鳴る。
高梨は与えられた居室に向かい、室内を見渡す。八畳以上はあるだろうか、その辺の貧乏長屋よりも充分に広い。作りにしても漆喰とベトンで出来ており、それなりに豪華にも見える。
何やら大きな木と、その周りを飛ぶ鳥の姿が壁画として描かれている。額で飾っていないのは振動で落ちる事を防ぐ目的に違いない。
壁に埋め込まれた観音開きの箪笥も、部屋の隅にしつらえられた広い机も、何故か天蓋付きの寝台にしても、兎に角頑丈な作りに見えた。紅玉龍――ルビードラゴンの”訓練”による衝撃に耐えるためだろう。
机の上には近くの店で扱っている商品の一覧が書いた紙――当然のように日本語で書いてあった――がおいてある。ご丁寧な事に値段は円表記だ。日本の金も使えるらしい。異世界なのにどういう理屈でそういう事が出来るのか、彼には見当もつかない。
これも宣伝という訳か。高梨は思った。彼はムルニネブイ商人たちの商魂たくましい姿を見せ付けられた気がしていた。
そんな中、何故か黄金製の豚形をした容器の中に蚊取り線香が入っているのを見つけた。
まだ六月の上旬だから蚊はいないと思うが、異世界での虫の生態など見当もつかないない。マラリアなどになっては元も子もないだろう、そう考えた彼は蚊取り線香に火をつけた。
線香の煙と匂いが部屋に充満する。少し落ち着いた彼は、ふと、合計二十数騎しかいないのにここまでの設備を作らせるルビードラゴンとは一体どんな龍なんだろうかと思いを巡らせた。

大方の日本人の予想に反して燃料庫や整備場については特に問題は無く――高梨はここでもムルニネブイ商人の力を見せ付けられた気がしていた――日本軍大陸同盟派遣団航空部隊”は無事に稼動をはじめる事ができた。
ムルニネブイ国のお偉方を前に飛行実演を行ったり、空中軍のドラゴン相手に演習を行ったりすることで一月あまりを過ごし、当初の熱狂も引いてきた頃、坂川少佐が士官全員を集めて告げた。

「来週から海軍の飛行隊も”日本軍大陸同盟派遣団航空部隊”に加わる事になった。海軍第六航空隊、通称六空の分遣隊だ。」

坂川の言葉で場がざわついた。誰もが戸惑っているのだ。
”帝国陸軍はその主力をもって海軍と戦い、余力をもって中国と戦う”という陰口は伊達ではない。
戦隊長が言うように簡単にいくとは、高梨には到底思えなかった。
整備長の刈谷大尉が周りを見渡しつつ挙手をし発言を求めていた。少佐の許可を得た彼は話し始める。

「少佐殿、燃料は別にして、武器弾薬の補給にしても発動機にしても陸軍と海軍では随分違う。
 俺達は陸軍仕様のものしか持ってない。今のままの整備班じゃ海軍さんの分は面倒見れないかもしれないぞ?」

ガソリンやオイルは去年から徐々に共用化が進み、現在ではほぼ共用できる。
だが、武器弾薬はもとよりプラグやナット等細かい部品から発動機といった機械類は冶具を含めてまだ統一がされていない。
刈谷大尉はそれを指摘していた。

「機械部品や冶具については大尉の言うとおりだ。だが出来るだけ共有してもらう。
 もし共有化で問題があったら都度内地に報告し、改善してもらうようにする手筈になっている。」
「そんなことが可能なんですか?」

坂川少佐の言葉に高梨は思わず尋ねた。幾らなんでも話が大きすぎる。一介の飛行戦隊長に出来る事ではない。
高梨以外は口には出さないものの、皆がそう思っていることに気が付いたのだろう。少佐は少し迷いを顔に浮かべた後、改まった口調で続けた。

「日露以来、いや、建国以来初めてかもしれない国難の前には、陸海軍の垣根などあってはならん。我々はそう考えている。」
・・・坂川少佐殿の言う”我々”とは飛行144戦隊の泊少佐殿や"参本の同期"達の他に海軍の将校も含むのだろうか、ふと高梨は思った。


七月二十五日、午前十時。海軍第六航空隊分遣隊がムルニネブイ臨時基地に飛来した。錬度の高い部隊であるらしい。どの機体も見事な三点着陸を決める。

「たいしたもんだ。海軍さんもやるもんだな。」

黒江大尉がつぶやく。高梨も全く同感だった。ここまで錬度が高い部隊は陸軍でもそれほどは無いだろう。

「それは新型かい?発動機がハ25――ああ、海軍さん言うところの栄には見えないもんでな。」

刈谷大尉が最後に降りてきた機体の搭乗員に質問した。

「仰るとおり、零戦の新型です。発動機が金星に変わっています。ああ、そんなことより自己紹介がまだでしたね。」

彼は居ずまいをただすと告げる。

「三木六蔵海軍大尉です。これから独立飛行四十七戦隊と行動を共にさせていただきます。六空共々よろしくお願いします。」

海軍大尉は菩薩のような表情でそう言った。
三木六蔵の通称はその顔から受ける印象どおり”菩薩の大尉”だった。ただし由来は多少違う。

「”ミロクの菩薩”とはまた随分と気張ったものだな。確かに、ミキロクゾウだから、字は足りてるが。」
彼の列機を勤める田島一飛曹――海軍の階級はよくわからない、と高梨は思った――から通称を聞いた最初の感想はそれだった。
「・・・高梨大尉も模擬空戦を行ってみればわかると思いますよ。」
田島は言った。それを聞いた高梨は階級に殿をつけない海軍式にも慣れないといけないな、と心中でため息をついた。

三木の実力を知る機会はすぐに訪れた。合同での模擬空戦を行うことになり、高梨の相手は三木に決まったのだ。

「お手柔らかにお願いしますよ。」

いつもの如く薄く微笑を浮かべた不思議な表情で三木が言ったが、高梨はその笑顔になぜか慄然とするものを感じた。


――高度3000、距離5000からの反航戦という形で模擬空戦は始まった。
高梨の二式単戦"鍾馗"が後方から肉薄し、射点に到達する僅か前に三木の操る零戦三二型にかわされる展開が続く。
格闘性能では"鍾馗"は零戦には及ばない。高梨は二式単戦で格闘戦をする心算は無かった。
と、追われ続けていた三木が旋回しつつ上昇を始めた。機体が軽い分、初期上昇力に優れる零戦は"鍾馗"を引き離していく。
高度を稼がれると厄介だ。上空から突撃することで重力を速力に換えることが出来る。
速力を互角にした上で自機の得意な領域に持ち込もうとしているのだ、そう判断した高梨も高度を確保するために追従する。
零戦は徐々に上昇角度を垂直に上げていく。三木は搭乗席でこちらを振り返ることも無い。追いかけてくることを確信しているのだろう。
しかし、これはプロペラで進む航空機が行うには危険な機動だ。失速する可能性がある。
――何やってるんだ?失速するぞ!
高梨が思ったまさにそのとき、零戦は空中でぴたりと止まる。失速点を越えたのだろう。そして、そのまま逆落としに落ちてくる。
航空機はエンジンのついている方が重い。だから、機体は翼を支点としくるりと一回転して――

「文字通りの逆落としか!」

機首をこちらに向けて高速で落ちてくる零戦を見て、高梨は思わず声に出した。こんな馬鹿な空戦機動は聴いたことが無い。
しかし、驚いてばかりはいられない。避けなければ空中衝突してしまうだろう。模擬空戦で死ぬわけにはいかない。
高梨は舵を操作して三木の零戦をかわす。高梨機が位置していた空間を零戦が急降下していった。
このまま墜落するのではと思われた零戦はそのまま背面飛行に移り、機位を建て直すと急降下で得た速度を生かして高梨機の追尾を開始していた。
――とんでもない男だ。”菩薩”じゃなくて”羅刹”の間違いじゃないのか。冷や汗をかきながら高梨は思った。

「三木大尉、高梨大尉。空戦技術を磨くのも大事だが、死んでは元も子もない。少しは自重しろ。」
坂川少佐のあきれたような声が無線から聞こえていた。

「・・・あんな機動をするやつが他にいるとは思わなかったな。」

地上に降り、広すぎる滑走路にしつらえられた士官用の天幕に入った高梨に向かって黒江大尉が言った。高梨は耳を疑った。

「こんな機動をする搭乗員が他にいるんですか?」

高梨の言葉に、黒江大尉は昔を懐かしむ表情で答えた。

「南郷というやつがいてな。模擬空戦の時、九七戦でああいう動きをしていた。あんな馬鹿なことをするのはあいつだけだと思っていたが・・・」

高梨はその名前に聞き覚えがあった。バレノア島でその剛勇を称えられた飛行五十九戦隊の空の竜撃墜王の一人だ。

「まあ、お互いの腕が判ってないと出来ないことだ。認められたって事だろうな。」

黒江大尉は高梨の肩を叩くと朗らかに言った。

この一戦以来、ムルニネブイ臨時飛行場に駐屯する海軍航空隊と陸軍飛行隊はお互いを信頼するようになっていったのが高梨には判った。
陸軍兵は歴戦の「ドラゴン殺し」高梨と互角に戦った三木と海軍航空隊を評価し、海軍兵は最凶の”ミロク菩薩”三木と対等に戦った高梨と陸軍飛行隊を評価していたのだ。
そのせいではないだろうが――

「零戦に山鹿流陣太鼓を描いちまったのか。」

広い格納庫内で、高梨は紋が描かれた零戦を見ながら半ば呆然としてつぶやく。海軍機はこういう部隊毎の特徴ある塗装を許可していないと聞いたことがあった。
独立飛行四十七戦隊の二式単戦"鍾馗"には山鹿流陣太鼓を基本とした識別章――赤い二本線と黄色の二つ巴が描かれている。
戦隊番号になっている"四十七"が赤穂浪士を基にしており、赤穂浪士といえば山鹿流陣太鼓だからだ。
もっとも、通称としては"空の新撰組"だの"かわせみ部隊"だのと名乗っている。赤穂浪士で新撰組とは随分贅沢な話だと高梨は思っていた。

「俺も全て描き終わった後で話を聞いた。三木大尉の依頼で、榊や立花たちが実行したらしい。」

刈谷大尉は苦笑する。榊も立花も腕も頭もいい整備員だ。このくらいはどうということも無いのだろう。

「良いんですか?海軍にはこういう風習は無い筈です。処罰されたりしませんかね?」
「大丈夫ですよ、高梨大尉。”上”の許可は得ています。」

いつからいたのか、三木大尉が後ろから言葉を掛ける。空での三木は変幻自在であるが、陸での彼も神出鬼没だ、高梨はそう思った。

「どういうことですか?」
「簡単です。日の丸と同じく、あの二つ巴が非常に評判が良いのです。なんでもこの国で神聖なモノとされている”うぃすぷ”とかいうものとよく似ているそうで。
 あなた方はどうして描いていないんですか?とまで尋ねられてしまってはね。」

三木は零戦を見つめつつ高梨の質問に答えた。高梨がなおも口を開こうとした瞬間、伝令の若い兵が血相を変えてこちらに来るのが見えた。

「何事だ?」
「大陸に――ロシモフ大公国に大協約陸軍が奇襲上陸しました。派遣されていた独立混成第一旅団が急行中です。制空権確保のため、至急我々も大陸に展開する必要があるそうです。詳しくは戦隊長殿からお話がある筈です。」

――馬鹿な。最も近い戦線からでも1000キロ以上はあるはずだ。一体何が起きた?
高梨は言い知れぬ不安に襲われていた。

初出:2009年12月13日(日) 修正:2010年6月11日(金)


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