昭和十六年七月十四日 対馬沖
「まったく、何だというのだろうな。」
軍服を着た男は何度目か判らない問いを発した。眼は海上に立ちこめる濃霧に釘づけだ。
「仕方ありません。自然現象が相手では、軍隊の出る幕では無いでしょう」
男の連れもこれで何度目か判らない答えを返す。やはり、その眼は海上に立ちこめる濃霧に向けられている。
男の名は高梨隆将。軍服には大尉の階級章がつけられていたが、童顔ということもありあまり大尉らしく――いや、軍人らしくもない。
だがその見た目とは反して高梨は間違いなく軍人だった。それも、手練の航空機搭乗員だ。
中肉中背ではあるが、軍人らしくいかにも引き締まった体躯は力強さとしなやかさを感じさせる。
何よりも印象的なのはその目だった。切れ長の目は穏やかだが、どこか獰猛なものを秘めているようにも見える。
まるで猛禽類のようだ、そう評されることもあった。
連れの男は柿本中尉。高梨とは不思議と行動を共にする事が多かった男だ。こちらも童顔だ。
高梨よりも年齢が若いせいもあり相当に幼く見える。中学生に間違えられることもあるほどだ。
ただしこちらも高梨同様に見た目どうりではなかった。高梨ほどではないが、十分に優れた搭乗員なのだ。
「それにしても、海上の濃霧というのはこんなにひどいとは思わなかった。全く何も見えないな。
濃霧警報など下らんと思っていたが、確かにこれでは警報もいるだろう。
馬鹿にしたものでもないのだな。」
高梨はあめりか丸の、海面からさして高くない甲板から目の前に広がる、まさに”白い闇”とでもいうべき霧を見ながらつぶやく。
まったく海面の状況が見えない状況が一週間も続く等という事は本来あり得ない事だが、船乗りでない彼らはそれを知らない。
はじめは物珍しかったこの風景も、一週間も続けばいい加減飽きてくる。
そしてそれ以上に不安になってくる。何しろここは病院船だ。いるのは基本的には後送が必要な病人ばかり。
よって――
――とてもではないが、明るい空気になるはずもない。船がこれしかなかった以上は仕方がないとはいえ、なんとも気が滅入る。
もう少し何とかならなかったものか。
高梨達は病院船にのっているとはいえ、彼らは何の病気もしていない。とはいえ、彼らのように元気な者は例外中の例外だ。
たまたま内地に帰還するのに、この船に乗り込んだだけだった。
健康そのものの彼らとしては船室でうめいている連中と日がな一日一緒にいたので神経が持たない。
倦怠感があからさまに顔に出ていたのだろう、柿本が取りなすように答える。
「まあ、海の事は海の専門家に任せましょう。最善を尽くしてくれているはずです。」
「そうでもありませんよ。」
二人は振り返った。顔見知りになったあめりか丸の乗員がつまらなそうな表情をして立っていた。
「我々は確かに海の専門家ではありますが、こんな事はほとんどありません。もう既に万策尽きた感があります。
何しろ、無線も通じないのですからどうにもなりません。」
匙をを投げたように言う乗員に対して高梨は言った。
「機材が古いのでは?この船もそろそろ五十になるのでしょう?あちこちガタもくるでしょうよ。」
この船は明治三十一年にイギリスで生まれた船ではある。ただし最近まで貨客船として活躍していただけあって、見た目はそれなりではあった。
機関や船体の一部には高梨の言うような問題もあるだろう。船員は苦笑しながら言った。
「まあ、それはありますが・・・しかし現実は、天測、方位磁針はもとより目視での航行すら不可能な状況なのです。
私は船乗りになって十五年たちますが、こんなことは初めてです。四十年乗っている船長でもそう言っています。」
あめりか丸は釜山を出てから対馬沖――おそらく――での停泊を余儀なくされていた。
風がまったくなく、海面もべた凪と言っていい状況なのが救いではある。ただし海面の状況がわからないため、これは感覚値でしかない。
実際に海面を視認する事が出来ない以上、どういう状況なのかは全く判らない。
サルガッソーのような海草に捕らわれてしまっている可能性も無いわけではない、乗組員はそう言った。
その疲れきった表情に高梨は同情した。要するに何が起きているのか判らないのだから無理もない。
これが普通の船でもあればまだ良いのだろうが、このあめりか丸は病院船だ。もとの空気が明るいわけでもない。
そこに加えてこの濃霧だ。神経を使うことこの上ないだろう。
「まったく、病人を満載しているというのに・・・」
乗組員が高梨達に思わず愚痴をこぼし始めたその時、高梨は何か視線のような、気配のようなものを感じて身をすくめた。
彼は思わず振り返るが、そこには誰もいない。他に見えるものは白い霧だけだ。
この感触には覚えがあった。空中機動中に何かが起きる時の感触だ。彼はそれを”搭乗員の感”だと考えていた。
他のものに聞いたことはないが、少なくとも搭乗員の誰にでも備わっているものだろう、高梨はそう思っている。
だがここは海上で、特に敵がいるわけでもない。それに、同じ搭乗員の柿本は何も気が付いていないようだ。
――いったい、何だ?どうしたというんだ?
「どうしました?」
高梨の様子に不審を抱いた乗組員が声をかけた。高梨が何か答えようと口を開きかける。
唐突にあたりに眩い光が満ちる。真っ直ぐ見つめたら目を潰されかねないほど強烈な光だ。高梨は手を掲げて光から目をそらした。
ほんの一瞬のような、長い時間のような、奇妙な時間が流れる。光は現れた時と同様に突然に消えた。
高梨は目を開いた。同時にある事に気がついた。
「霧が!霧が晴れましたよ!」
柿本の言うとおり、霧は晴れ渡っていた。白い闇にも匹敵するほどだった濃霧は、いまや跡形もない。
柿本の嬉しそうな声とともに、一週間ぶりの陽光がブリッジを照らす。
ブリッジには歓声があふれた。万歳しているものすらいる。万歳はやり過ぎだろう、高梨はそう思ったが何も言わなかった。
少なくとも、これで――
「これでやっと船を動かせるというもんだ。まあ、何にしろめでたい。
では、私はこれで失礼します。確認は必要でしょうが、間もなく動き出すと思います。
あまり舷側の方には行かないように注意してください。」
乗組員の言葉に高梨は伸びをしながら応じた。
「判っています。これ以上傷病人が増えたらたまりませんからな。」
乗組員は駆け足で艦橋へと向っていった。艦橋の窓ガラス越しに、甲板から見てもわかるほどに人が慌しく動いているのがわかる。
間もなく動き出すという彼の言葉は間違いないのだろう。
「いや、良かった良かった。こんなところで一生を終えなきゃいかんのかと思ってましたよ。」
柿本が軽口を叩いた。冗談めかしてはいるが、声の調子からすると幾分は本気でそう思っていたらしい。
いかに実戦経験のある搭乗員とはいえ――いや、だからこそかもしれない――こんなところで死ぬのは本位ではないだろう。
高梨にもその気持ちは良く判った。だから彼も同じような調子で言った。
「何、こんなところで死ぬものか。死ぬ時は空の上だ、海の上でなんて死んでも死にきれんよ。」
二人は声を合わせて笑った。
張りつめていた気分を少しだけ緩めた高梨は彼方を見つめた。目を凝らせば対馬なりが見えるかもしれない、そう思ったのだ。
果たして彼は水平線上にある煌めきを見つけたる。おそらく船か何かだろう。
ここ最近、白い霧ばかりを見つめていた彼にとってはただの船であっても新鮮だった。
彼は首から提げていた舶来物の双眼鏡を向けた。船が見える事を期待していた彼だったが、しかし――
「どうしました?」
先ほどの余韻をまだ引き摺っているのか、笑顔の柿本中尉が高梨に話しかける。
だが、高梨はそれに答える余裕がない。期待を全く裏切るものを見つけてしまったのだ。
高梨は先ほどまでの倦怠感とはうって変わって異常なまでの緊張感とともに海面の一点――水平線近くを凝視した。
最初に目に入ったのは黒煙だった。これだけならば石炭炊きの船がいるのかもしれないと思うような、どこか長閑な煙だ。
しかし、船から発せられているのはそれだけではない。黒煙の下はこの距離からでも判るほどの炎に包まれている。
火災が発生しているのだろう。その上に乱舞する黒い影を確認した刹那、高梨は絶句した。
大きく眼を見開き、現実を疑おうとしたその瞬間、見張り員から声が聞こえた。どうやら同じ光景を見たらしい。
見張り員は高梨が見たものと同じものを、高梨とは異なり疑うことなく大声で叫んでいた。
「船長!右舷前方で船舶が爆撃を受けているようです!」
――ロスケの馬鹿どもか?それとも国民政府か?いずれにしても、馬鹿な選択をしたものだ。
関東軍百万が満州に揃っているというこの時期を選ぶとは。
高梨は歯軋りしながらそれを見つめていた。
「そんな、馬鹿な・・・」
高梨が渡した双眼鏡で食い入るように遠方を眺めていた柿本はその言葉と共に双眼鏡を下ろした。その表情は驚愕に満ちている。
先ほどは自分があの表情をしていたのに違いない、高梨は思った。
彼が何か言葉をかけようとしたとき、船体が僅かに傾くのを感じる。あめりか丸は速度を上げて爆撃されている船団の方へと舵を切ったのだ。
高梨は船長の意図に気が付いた。しばしブリッジを眺めてから柿本に言う。
「近づく事で攻撃を止めさせようという腹か。船長はよほど豪胆なのだな。」
「病院船が近づいたくらいで攻撃を止めるんですか?」
「まあ、普通に考えれば止めないだろうな。」
「それじゃ!」
逃げたほうが、そう言いたそうな柿本を高梨は手で制した。
「逃げるか?攻撃されている味方を放棄して?」
「どっちが味方か判らないじゃないですか!攻撃しているのが味方かも知れませんよ!」
「それならそれで良いじゃないか。つまり、どう転んでも特に問題はない筈だ。だから船長も接近してるんだろう。
それに――」
高梨は一旦言葉を切って黒煙が上がるほうを見つめた。
「ここで逃げたら日本男児が廃るというものだ。違うか?」
あめりか丸はもどかしいような速度で、少しずつ船団との距離を縮めていった。水平線にかすみそうだったその姿は、今でははっきりと確認できる。
しかし、高梨は近づくにつれて様子がおかしいことに気がついた。何かが不自然だ。彼は違和感の原因を探るべく水平線を見つめた。
そして違和感の原因に気が付いた。攻撃をかけている航空機の機動がおかしいのだ。
通常の航空機の機動とはことなり、空中で静止、反転するような動きをしているように見える。航空機というには変則的過ぎる動きだ。
高梨は双眼鏡を構える。そして、再び言葉を失った。
「どうしたんですか?」
柿本の声にも高梨は微動だにしなかった。彼は自分の見ているものが信じられなかったのだ。
――そんな馬鹿な。何故、どうしてこんなところにあんなものが。
これは現実なのか?いや、そんな筈は。何かの見間違いだろう。
そうでなければ、こんなところにあんなものがいる筈が――
「――大尉殿?高梨大尉殿?」
柿本が呼びかける声で高梨は我に帰った。そうだ、こいつにも見せよう。そう思った高梨は緊張した面持ちで柿本に双眼鏡を渡した。
「おい、アレ、何に見える?」
高梨は信じられないという声で天空の一点を指差した。柿本は不審そうな表情で双眼鏡を構えた。
次の瞬間、柿本の身体に緊張が走ったのが判った。やはり、同じものを見ているのに違いない。
その方向を食い入るように見ている柿本が、やはり信じられないのだろう、緊張に震える声で答える。
「竜・・・それも、西洋の・・ドラゴン・・・?」
どことなく鰐を彷彿とさせるような、するどい牙が幾重にも生えた顎。
しかし、鰐と似ているのはそこまでである。
鰐のような頭を支える長い首は、胴とおぼしき場所でその太さを増す。
達磨のごとくふくれた巨大な腹部には、どことなくコウモリのそれを思わせる、だが本質的に異なる理を感じさせる桁違いに大きな翼がついている。
胴からはこの距離からも判るほど強靭な、まるで獅子のごとき脚。
首のすぐ横から生えているのは腕だろう。ものをつかめるのではないかと思うほど精巧に動いている。
尾翼代わりにバランスをとっているのだろうか、それだけで最大級の大蛇を遥かに超えるだろう尻が空を凪ぎ払う。
西洋では王族の紋章にも使われるという伝説の幻獣、ドラゴンの姿がそこにあった。
悪い事にそれは単独ではない。少なくとも十匹以上はいる。
そして、竜達が首を大きく後ろにそらして咆哮するたびに何かに向けて放たれる巨大な炎。
眼をこらせば、その下で何かが炎上している。その光景が示すものは一つしか無い。
「・・・船団が・・・竜の爆撃を受けているのか・・・」
そう独語した高梨だったが、どこか呆然としていた。
「また一隻やられました!あのままじゃ、全滅しちまいますよ!」
柿本が悲鳴にも似た声を上げた。彼の言うとおり、見つけた当初三隻いた筈の船団は今では二隻になっている。
その二隻のうち一隻にはドラゴン――のように見える何か――が取り付いている。
ドラゴンは一斉に火球を放った。それを受けた船は全体から炎を吹き出しながら斜めに傾く。
まだかなり距離があるが、それでも喫水線が見る見るうちに下がっていくのが判った。間もなく沈むだろう。
ドラゴン達は勝ち誇るかのようにその上空で円を描いて飛行する。そうしてから、最後の一隻に群がり始めた。
一頭のドラゴンが火の玉を打ち出す。船体の中央部に命中したそれは、船体構造物を吹き上げるように爆発する。
他のドラゴンは降下と上昇を繰り返しながら飛んでいるだけだ。何をしているのか、高梨には見当がついた。
おそらく、やつらは――
「楽しんでやがる・・・」
柿本がつぶやくように言った。その通りだろう、高梨は思った。
猫が鼠をもてあそぶように、手出しできない相手をいたぶっているのに違いない。なんて連中だ、高梨は頭に血が上るのを感じた。
彼も実戦経験のある搭乗員だ。戦場では何でもありで、奇麗事が通用しない世界だというのは判っているつもりだった。
だが、今行われているのは明らかに不必要な行為だ。目標を攻撃する以上の、悪意がこめられているとしか思えない。
奴等は『敵』だ。あれが皇軍の行いである筈がない。高梨は柿本に命じた。
「柿本。拳銃に弾は入っているな?」
「・・・大尉殿、アレと拳銃で戦おうってんですか?それは無茶ですよ!」
「何をいう、当然だろうが!あいつ等を撃ち落とすぞ!何、ドラゴンだって生物だ!拳銃で十分だ!」
高梨のあまりの剣幕に柿本があっけに取られた時、あめりか丸の警笛が重低音をあたりに轟かせた。
一回、二回と回を重ねるにつれてドラゴンの動きが乱れた。竜が描いていた円軌道が乱れる。
高梨は一頭のドラゴンがこちらを見つめているのに気が付いた。そのドラゴンは少しの間あめりか丸を見つめると空中に炎を吐いた。
それは大きな音と煙を立てて炸裂する。同時にドラゴン達は一斉に翼を翻し、あめりか丸とは反対の方向に退避を始めた。
「助かった、のでしょうか・・・?」
柿本は高梨に問いかけた。高梨は曖昧に頷く。
――おそらく、あの警笛の意図を誤解したに違いない。こちらが何か仕掛けると思ったのだろう。
あれが単なる警笛だとは気が付かなかったに違いない。やはり、あれは――
いや、それは如何でも良いことだ。遠ざかる『敵』を見ながら、高梨は柿本の言葉に答えた。
「助けねばならん、だな。我々は一刻も早くあの船団の救助をせねばいかん。」
十数分後、あめりか丸は船団まで僅かの距離に迫っていた。
「こいつは酷いな・・・」
海面に散乱する木片や鞄などを見た高梨はつぶやいた。大半が黒く焼け焦げている。
船は結局三隻だったようだ。二隻が横倒しになり、ほとんど沈みかけている。
もう一隻はそれよりは多少マシだったが、上部構造物は炎に焼かれたのだろう、随分とすすけて痛んでいる。
しかし、高梨が気になったのはそんな事ではなかった。
「何か、変わった船ですね。船というよりは、その、なんと言うか――」
「生物のような、か?俺もそう思ったところだ。・・・とはいえ、俺たちは船に詳しいわけでもないからな。
おそらく、仏印か馬来か、その辺ではこういう形なんだろうよ。」
あめりか丸よりは随分小ぶりだ。そしてどこかが奇妙だった。船の形をしていない、という訳ではない。
全体の形は確かに船だった。だが、丸みがかったその姿は人工物というよりは生物を――鯨を思わせる姿をしている。
さらに観察しようと身を乗り出しかけた高梨は艦橋から先ほどの乗組員が近づいてくるのに気が付いた。
ロープと浮き輪らしきものを手にしている。舷側では小船が海面に降ろされようとしていた。
小走りに近づいてきた乗組員は敬礼を一つしてから高梨達に言う。
「大尉殿、もし宜しければ手伝っていただけませんか?」
高梨は頷いた。命令系統からいけばやる義理はないはずだが、この惨状を見せられて何もしないのは男ではない、彼はそう思ったのだ。
「何をすればいい?」
乗組員はほっとした表情で彼にロープを渡しながらあれこれ説明を始めた。高梨はそれを聞きながらふと海上を眺める。
先ほど降ろしたカッターに数人の生存者が救助されているのが見えた。金髪もいれば黒髪もいる。
毛布に包まっているので服装はわからないが、皆、品は良さそうに見えた。きっと上海経由の客船だったに違いない。
高梨は目でその光景を見ながら、耳で乗組員の説明を聞く。ようするに、船を曳航するからロープを張るのを手伝え、そういう事らしい。
「・・・というわけです。お願いできますか?」
高梨は頷いた。溺者救助は勝手がわからないが、ロープの操作なら多少は出来る。
彼は乗組員について歩きはじめた。
高梨の予想通り、それは客船だった。所属国は高梨が聞いたこともない国――ムルニネブイ国だ。
幸いなことに<トヴァー号>と名乗る生き残った船には日本語が話せる人物が乗り合わせているらしく意思疎通に問題はなかった。
曳航する旨を伝えてロープを結ぶ。邂逅から六時間後、曳航の準備をととのえたあめりか丸は、客船を伴って博多に向って速度を上げた。
・・・これが、全ての始まりであった。
初出:2009年10月5日(月) 修正:2010年6月6日(日)