昭和二十三年二月二十八日 サン=クルーゼ

同盟軍イーシア奪還軍司令部はル・ティエュ=ギイユから南に二百キロほどの都市、サン=クルーゼに置かれている。
岩塩の鉱床があることから古くから栄えた街であり、美しさで知られた街であり、南部と北部をつなぐ要衝でもあった。
そのため当然のように大協約軍による重要目標に指定されており、つい先ごろまで大協約軍に占領されてもいた。
大協約軍からこの街を奪還したのは去年の十月の事であり、それほど前のことではない。
だが、この街は戦火を潜り抜けたとは思えぬほど美しいかった。
岩塩に防溶加工を施した、純白と淡い桜色の二色の煉瓦状の塊で形造られたこの都市は、両軍の理性ある行動で保護されたのだ。
二色の岩塩を組み合わせて様々な色合いを出す建築物に被害を出さぬよう、両軍はこの街での市街戦を行わなかった。
日本軍の爆撃機が故障のため不時着する際に操作を誤って壁の一部を破壊した際には、大協約軍から苦情が来たほどだ。

だが、その様なことは高梨には関係がなかった。彼は緊張した面持ちで馬車から降りた。
彼が降りたのは同盟軍司令部が置かれている豪奢な建物の前だった。
僅かな坂の上に立てられた建物はおよそ十階建てほどの高さがあり、上空から見れば馬蹄状であろう形をしていた。
高梨が降りたのは端と端の間のところだった。おろされたは良いがどこに進むのか判らない彼はあたりを見回す。
どうやら馬蹄のふちに沿って右回りに進むのがただしい道らしい、と高梨は見当をつけた。
彼のように道に迷う者が後を絶たないのか、矢印が書かれた看板が立てられているのだ。
彼は看板の指示に従って歩き始めた。短いが急な坂を登ると、中央部が庭園になっているのがわかった。
そこはロシモフ風自然と溶け込む庭園とも、ムルニネブイ風の豪奢な庭園とも、ましてや日本の侘び寂びな庭園とも違っていた。
とはいえ、庭園に造詣が深いわけではない高梨には何が違うのかは見当もつかない。
そういえば、ジェシカさんはドワーフの頑固さと、その頑固さの裏にある優美さが出ていると言っていたな、高梨は思い出した。
芝生が多く、木の丈もそれほど高くない庭園の中心部には特徴的な造形物があった。
透明な岩塩で造られた、巨大な三角錐を中心に長さが異なる二本の剣が置かれ、周囲にいくつもの金属像が置かれている。
三角錐が一定間隔で規則正しく明滅を繰り返し、そのたびに剣が僅かに動いている。つまり、これは――

「サン=クルーゼの名物、"スリープストーンの大時計"だ。見事なものだろう?」

いつの間にか傍らに来ていたケンタウロスの王、ハシフ=ハーンが話しかけた。高梨はかしこまりつつ応じる

「確かに見事なものです。ですが、今はゆっくり眺める気にはなれません。」
「それもそうだな。良い報告をしに行くわけではないからな・・・」

ハシフ=ハーンはその髭面をゆがませた。



昭和二十三年二月二十七日 ル・ティエュ=ギイユ近郊

高梨率いる二十四機の"疾風"はケンタウロスの一団をその場に残して北方から迫る空中要塞に対して突撃を開始した。
"疾風"には機載電探は装備されていない為に正確な距離はわからないが、おそらく二、三十キロ先だろう。
地上での移動速度から考えると随分遠くだが、航空機の移動距離としてはたいしたことがない。
高梨は無線機越しに全機に告げる。

「空中要塞をやりたいところだが、噴進弾程度では効果はないだろう。だから、あの”海月”に一撃を食らわせる。
 大して効くとも思えないが、ハシフ=ハーン陛下達が逃げ切るくらいの時間は稼がねばならん。」

彼はそこで一拍置いた。その間にも空中要塞と”海月”の姿は少しずつ大きくなる。
次第にその輪郭が複雑になっていく”スレイマーン”。
その姿は高梨にブルードラゴンの姿と――墜落していく伊橋機の姿を思い出させた。
高梨は無線機を切って軽くため息をつき首を振る。始める前から負ける事を考えては駄目だ。
進みたくもないのについ見た方向に進むのと同様、悪い予想をしてその通りに引き摺られる事は良くある事だ。
だが、高梨は思った。だが、あれを忘れてはいけない。自分の未熟さで部下を死地に追いやるようなことは、もうたくさんだ。
二度とあのような事はさせない――いや、してはならない。
彼は再び無線を入れると、改まった声で全機に告げる。

「おそらく、空中要塞からは防空隊のドラゴン、または巨鳥が出てくるはずだ。
 舐めてかかると痛い目を見せられる。必ずいるものと考え、見張りを怠るな。よし、続け!」

高梨はそういうとハ四五のスロットルを全開にする。それに応じるように彼の"疾風"は唸りを上げる。
たちまち機速が上がる。他の"疾風"もそれに続く。
二十四機の六百五十キロ以上の速度で空中要塞と”海月”に対して接近していった。

――岩でもなければ、雲でもない。見たところ幻影の類でもない。
  やはりこいつは”海月”なのだろうが、それにしても・・・

高梨は当惑していた。近づくにつれ”海月”の怪異な姿が明らかになっていったからだ。
それは巨大だった。まだかなり距離があるが、その存在感は圧倒的だった。差し渡し十キロほどはあるだろう。
入道雲のような沸き立つ形ではなく、碗を伏せたようなゆるい半円形をしている。
遠めには純白に近く見えたが、近づくにつれ白と透明の中間に近い色合いであることが判った。
太陽の光を反射してのことなのか、あるいは中に何かがあるせいなのか、緩やかな間隔で色の濃さが変わっていくようだ。
良く見ればその表面には小さな、だが一つ一つは電信柱ほどはあるだろうという大きさの棘状のものがびっしりと生えている。
もしかすると何かの攻撃を行ってくるのかもしれない、高梨はふと思った。
あれだけの大きさの生き物が何も行ってこないはずはない。電撃か火炎か、あるいはあの棘自体が飛んでくるのか。

――考えても仕方ないか。いずれにしても、ここには我々の飛行隊しかいない以上、やるしかない。
  様子を見たいところだが、そうも言っていられないだろう。まずは攻撃して反応を見るとしよう。

高梨は徐々に大きくなるその生き物を照準機に捉えながら思った。
もともとの距離がそれほどではないため、"疾風"の群と”海月”とは急速に近づいていく。
接近しながらも多少高度をとっている。あまり効果はないのかもしれないが、少しでも敵の上は抑えたいからだ。
あまりの巨大さに距離感を掴むのも容易ではない。幻惑されそうになりながらも、高梨は周辺の警戒に気を配る。
後続する空中要塞からもこちらが視認できているはずだが、不思議と防空隊が上がってくる様子はない。
もしも敵の防空部隊が出張ってきた場合にも、高度をとっていることが多少の優位にはなるだろう、高梨は思った。
二分ほどの飛行の後、彼の部隊は”海月”の近くまで接近することができた。
近くで見る”海月”は、どこか頼りなさげでありながらも威容を放っている。その動きからすると明らかに生き物だ。
風に緩やかに揺れる棘と明滅する巨体を見ながら高梨達は緩降下して至近距離に来たとき、高梨は命令した。

「対地噴進弾、全弾発射!」

直後、二十四機の"疾風"が一斉に対地噴進弾を発射した。戦隊が飛行する空域が白い発射煙で満たされる。
巨体に対して至近距離まで接近して放たれた噴進弾は、そのすべてが”海月”に命中した。
対地攻撃のために搭載されていた噴進弾は着発信管によって着弾と同時に爆発するようになっている。
この一撃で仕留められるとは高梨も考えてはいない。だが、何らかの損害は与えられる筈だと考えていた。
しかし――

「馬鹿な、全く何も起きないだと!」

高梨は搭乗席内で大声を上げた。対地噴進弾はどう考えても外しようがない距離で発射された。
だが、その着発信管が作動した様子はない。”海月”の表面は、まるで何もおきなかったかのように穏やかなままだ。
高梨は降下を続けながら二十ミリを撃つ。僅か表面が盛り上がったようにも見えるが、やはり何もおきない。
着弾したはずの地点を中心に棘がやや揺れているのが確認できるが、それだけだった。
”海月”は高梨たちをあざ笑うかのようにぼんやりと空中に浮かぶのみで、何もしようとはしない。
"疾風"の群はその後も銃撃を繰り返したが、満足のいく効果は得られなかった。
二十ミリをここで使い切っては自衛の武器も残らなくなってしまう。そう判断した高梨は撤退を決意した。



昭和二十三年二月二十八日 サン=クルーゼ・同盟軍イーシア奪還軍司令部

「以上であります。」

高梨中佐は緊張した面持ちで報告を終えた。室内にどよめきが広がる中、高梨の横に立つハシフ=ハーンが言った。

「この俺が双眼鏡で見ていた事と同じだ。タカナシの報告に間違いはない。
 もちろん、正式にケンタウロス軍からも報告書があがっている通り、複数の人物が同じ現象を確認している。」
「確かに、陛下。それは確認しています。今回のことも、別に陛下やタカナシ中佐の報告を疑っているからではありません。」

ロシモフ出身のエルフ参謀将校、アレクセイエフが言った。細身、長身で美形という絵に描いたようなエルフ将校だ。

「今回お越しいただいたのは、間近に見たも方の率直な感想が欲しかったからです。
 何しろ、高梨中佐の攻撃の後は周辺空域にブルードラゴンが展開されましたから、以降は近づけなくなっていますからね。
 力押しで無理やり押せば撃破できるかもしれませんが、”海月”の能力がわからない今は危険と判断しています。
 もし、魔力貯蔵庫のような仕組みだった場合には大変なことになります。」
「ブルードラゴンの最上位竜騎士魔法”重雷破”を連発されたり、か?」
「可能性は低いでしょうが、そういう事です。」

ケンタウロス王の言葉にエルフ将校は頷いた。その所作はいかにもエルフらしく洗練されたもので、高梨が思わず見とれたほどだ。
随分若く見えるエルフ将校だが、あの所作といい一朝一夕で出せるものではない。きっと百歳近いのだろうな、高梨は思った。


「シトママシトマ」(”問題が幾つかある。整理してみよう。”)

牛頭人のアジフ将軍が言う。いかつい体に巨大な戦斧を帯刀した姿が如何にも牛頭人といった風情のミノタウロス指揮官だ。
格闘戦では虎人兵団とともに無敵を誇るミノタウロスではあるが、空中の事になると勝手が違うのだろう。
その声には迷いのようなものがあった。

「シトママシトマ。シトマシトマトマ。シトママシトママシトマ――」
”一つ目は、アレはそもそも何か、という事だ。先ほどの話からすると生き物らしいが、詳細が判らん。
 二つ目は、アレが何をしにここに来ているのか判らん、という事だ。単に牽引用の生物なのか、戦闘獣なのかの見当がつかん
 そして三つ目は――”
「ハタリハタマタ!」(”あのクソッタレのせいで、我々のイーシア奪還作戦が遅延するって事だ!”)

虎人兵団のラジャ司令が大声を上げた。興奮のあまり獣化している。
牛頭人や獣化状態の虎人を始めとする獣人族の言葉は、音と聞こえてくる声が異なってる。
一同は平然としているが、久しぶりに牛頭人や虎人との会話を行う高梨は戸惑いを隠せない。
ラジャ司令はそんな高梨を無視し、アレクセイエフに向かって怒鳴るように言う。

「ハタリ!ハタリハタマタ!」(”アレク!あいつは、そもそも何だってんだ!”)
「アレが何かについては、ある程度見当がついています。」

虎人の様子に飲まれる事無くアレクセイエフが淡々と言った。慣れているのかもしれない。

「あのような生物は歴史上確認されていません。おそらく、ホムンクルスであると考えております。
 そして、あの大きさのホムンクルスを構想し、現実に造りうる魔道士はそう数が居るものではありません。
 おそらくは大協約の最高幹部で神官王の懐刀の一人、アンケル侯爵の”作品”でありましょう。」
「ハタリハタマタ?」(”あの陰気な野郎か?”)
「はい。彼は史上最高と言っても良い人造生命の大家です。他にこのような真似ができるものはいません。
 少なくとも、東方大陸にはホムンクルスの分野で彼に匹敵するだけの人材はいません。」

居並ぶ将軍や指揮官たちが不満気に唸り、各種族がそれぞれのやり方で不機嫌をあらわす。高梨は落ち着かない気分にさせられた。
エルフの参謀は高梨に視線を移す。同情してくれたのかもしれない、高梨がそう思った次の瞬間にアレクは言った。

「その他、詳しいことはこの高梨中佐に聞くのがよろしいでしょう。そのために呼んだのですから。」
「ハタリハタマタ!」(”それもそうだな!”)

虎人の司令が身を乗り出す様子を見て高梨は呻いた。ここで説明するのはこれで三度目になるな、そう思ったのだ。


「確かに命中したはずなのに、対地噴進弾は爆発しなかったのですね?」

対”海月”攻撃の様子を語る高梨の言葉をアレクセイエフが遮った。
優秀さゆえか、あるいは流石に三度目ともなると内容を把握しているためか、その遮り方はどこか手馴れている。

「ええ。一つ二つなら信管不良ということもあるでしょうが、編隊全機分の百九十二発が全て不発とは考えられません。
 ですが、現実にすべてが不発でした。二十ミリを幾つか撃ち込んでも見ましたが、全く同じです。」
「一切、損害を与えた様子はないのですね?」
「はい。ただ、着弾時に棘らしきものが少し揺れるのは確認しているので、当たっているのは確かだと考えられます。」

高梨の言葉を聞いたアレクセイエフが眉を顰めて考え込む。ラジャ司令が多少落ち着いた口調で問いかけた。

「ハタリハタマタ!ハタリハタマタ!」(”他に何か気がついたことはないのか?”)

何かあっただろうか。高梨は考え込んだ。そして、ふと思い出す。そうだ、大した事ではないかもしれないが。

「二十ミリを撃ち込んだとき、そういえば表面が少し盛り上がったようにも見えました。
 着弾が何か影響しているのかもしれません。風の影響などの外的要因、あるいは気のせいであるかもしれません。」
「ハタリハタマタ」(”そうだな、気のせいだろう。まさか、飛行機械の魔力弾を喰っている訳では――”)

ラジャ司令は言いかけた台詞を途中で止めた。高梨も気がついた。そうだ。おそらく、あいつは。

「あいつは、こちらの攻撃を全て”喰って”いるとでもいうのか。」

全員の声を代弁するかのようにアレクセイエフが呻いた。

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「そっから先は喧々諤々でな、大変じゃった。」

いや、ホンに大変じゃった。ミノタウロスの怒号とワータイガーの咆哮とが交錯する、文字通りの修羅場じゃったからな。
じゃが、気楽な部分もあるのう。

「もっとも、その会議自体がその後どうなったのかは・・・実のところ、内容までは詳しくは知らんのじゃ。」
「どういう事?」

孫が小首をかしげおる。うむ、そうじゃよな。

「ひとしきり怒号が飛び交う中、思い出せる限りの情報を思い出して喋り捲ったのは確かじゃ。
 じゃが、わしの仕事はそこまでだったのじゃ。」

孫は目をぱちくりさせおった。

「何で?おじいちゃん、空軍の偉い人だったんでしょ?」

偉いとかどうとか、そういうことは誰から聞くのかのう。さて、どういったものか。

「あ、でも戦争の時はそれほど偉くなかったんだっけ?」

む?確かにそうじゃ。そうなんじゃが。
自分で言う分には別にどうにも思わんが、なんとなく、こう、釈然とせんな。・・・まあ、ええ。

「うむ。当時は別にごく普通の中佐じゃった。平ではないが、取り立てて偉いわけでもない、ただの若造じゃ。
 そこから先の会議からは追い出されてしもうたのじゃ。」
「ひどいね!何も追い出さなくてもいいのに!」

憤ってくれるか。うむ、かわいいやつじゃ。今度お小遣いでもあげよう。
とはいえ、のう。

「奪還作戦全体について、わしが何か貢献できるわけでもなかったからのう、仕方あるまい。
 そもそも、わしがあの場にいたのは”説明するため”だったわけじゃからな。
 それが終われば、用済みというのはむしろ当然なのじゃ。それにのう。」

うむ、うまく小学生に伝えられるかのう。

「秘密を漏らしたくないなら、知らないのが一番いいのじゃ。じゃから、追い出されたのじゃな。」
「どういうこと?」
「わしは戦闘機パイロットじゃから、何かあって撃墜されたら敵の捕虜になってしまうかもしれんじゃろ?
 そうしたら、敵が魔法か何かで情報を引き出そうとするかもしれんではないか。
 最初から知らなければ、情報を漏らす心配もないからのう。」

・・・とはいえ、知らせて欲しかった事というのは結構あるのじゃがな・・・

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昭和二十三年四月三日早朝 サン=クルーゼ第一野戦飛行場

サン=クルーゼ第一野戦飛行場は同盟軍最前線にある野戦飛行場だった。
<昭南>は相変わらず<凪の海>に待機しているものの、空中要塞の出現以降、高梨たちはこの野戦飛行場を本拠地としている。
べトンで固められてこそいないが、飛行場として望みうる限り最善に近い状態で作られていると高梨は思っていた。
海上からでは距離が遠すぎて援護に不向きであると判断されたためでもあった。

――着陸先のピッチやヨーを気にする必要がない、硬い地面があるというのは実に幸せなことだ。

洋上発進があまり好きではない高梨にとってはむしろこの方が好ましかった。
それだけではない。彼はイーシア平原の風景が、ことに朝が好きだった。
高梨は飛行場の片隅に立ち、辺りを眺める。朝もやを通して差し込む陽光に滑走路脇の草露が輝くのが美しい。
野戦飛行場はドワーフの土木作業力で見事に平らにならされた平原の片隅に造られている。
東には遥かイーシア山間部を臨み、北に目を凝らせばサン=クルーゼが美しく輝きを放っているのが見えた。
かなりの距離があるにも関わらず街が見えるのは、ドワーフが基本的には地下を好み、地上に余計な建築物を作らないせいだろう。
高梨はこの風景が気に入っていた。自然の雄大さと文明の英知をともに堪能できる、実にすばらしい眺めだからだ。
戦争をしているのでなければ、もっと良いのだろうな。彼は常々そう思っていた。


「いい眺めですね。」

いつの間にか高梨の傍に来ていたジェシカ・ディ・ルーカが声をかけた。頭の後ろで軽くまとめた金髪が朝日に映える。
彼女の身分は同盟軍の日本空軍付武官であったが、今ここでは銀竜騎士団員として振舞っている。
以前その事を尋ねた高梨に対して、その方が色々便利ですからと彼女は答えていた。
「これで、あの”スレイマーン”をこの地から退けさえすれば完璧なのでしょうけれど。」

声を少し落としてジェシカは続けた。


空中要塞は未だにイーシア平原部、ル・ティエュ=ギイユに健在で、同盟軍に対して睨みを利かせている。
もちろん、同盟も手をこまねいていたわけではない。既に幾度かは攻撃が行われていた。
同盟軍巨鳥部隊と日本軍航空隊との共同攻撃が五度。そのうち三度は地上部隊も攻撃に参加している。
しかし、それは悉く失敗していた。あらゆる攻撃は”スレイマーン”に小揺るぎ一つさせることがなかった。
あの”海月”が空中要塞をかばうように上空に展開し、すべての攻撃を吸収してしまうのだ。
しかも、それだけではない。

「攻撃を吸収した分、大きくなるなんて・・・」

ジェシカが困惑した表情で言った。彼女の言うとおり、”海月”は攻撃を受けるたびに巨大化しているのだ。
高梨による報告の際には可能性でしかなかった。その後、二度の攻撃を経て大きさが変わっていることが確認されている。
それを受けた上で、三度目以降はその攻撃吸収能力を上回る事を目指して攻撃を仕掛けた。
イーシアに進出した"連山"の根こそぎ動員と、対ドラゴン弱体化能力圏外からのルビードラゴン数騎による攻撃は、しかし――

「街一つ灰にするに違いない攻撃を受けて、破裂するどころか更に巨大化するなんて・・・非常識もいいところです。」

魔法使いでも”非常識”という言葉を使うのだな、そう思った高梨は微笑む。
だが高梨は直ぐに表情を改めた。非常識かどうかは別として、厄介であることには変わりない。
彼は作戦失敗を聞いた際にドワーフ族将軍が言った言葉を口にした。

「"熱量は十分の筈だ。恐らく集中が足りん。包み込む様にではなく、貫くようにする必要がある"でしたかね。」
「・・・一点に集中させろ、という事ですね。確かにそうでしょうが、難しい注文です。
 でも”海月”さえどうにかすれば、空中要塞自体は何とか攻略できるでしょうから、状況はそこまで悪くないかも知れません。
 あれ自体の攻撃力も相当なものですが、ここに集結している同盟軍の戦力の方が上回っているでしょうし。
 空中要塞を失えば、大協約軍は攻勢能力の大半を失います。この戦争はまもなく終わるでしょう。」

軽く微笑んだジェシカは続けた。

「そう考えると、あれは確かに”しるし”かもしれません。」
「”しるし”ですか?」
「ええ。古の西方大陸の魔道士が記した預言書に、そういう一節があるのです。
 "時の果て、2つの”しるし”が空に現れる。全ての戦は終る"と。
 一部の魔道士は、”しるし”が空中要塞とあの”海月”の事だと、そう考えているのです。」

高梨はそれについて詳しく聞こうとしたが、その時彼の名を呼ぶ声が聞こえた。声の調子からして彼を探しているらしい。
彼が大声で返答する。すぐに、伝令兵が息を切らして走ってくるのが見えた。
随分急いでいるな、高梨がそう思う間もなく伝令兵は彼らの元にたどり着くと敬礼もそこそこに言う。

「高梨中佐、ジェシカ中佐。今すぐ<昭南>に向かってください。」
「どうした?」
「判りません。とにかく直ぐに、○九○○までに<昭南>に来るように、との事です。全てをおいて、最優先で。」
「○九○○!?」

今すぐ出ても、ほとんどぎりぎりの時刻だ。ジェシカと高梨は顔を見合わせる。
何かが動こうとしている、高梨はその動きを確かに感じていた。

初出:2010年9月5日(日) 修正:2010年9月12日(日)


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