一人の女が船の舳先で海を見つめている。
海には靄が掛かっており、それこそ100ヤード先も満足に見えないような状況であるが、彼女はひたすらに海を見つめていた。

キャンディス・フォン・ベックマンは美しい女だった。
身長5フィート5インチ、身に着けている簡素なドレス越しでも判るほどのしなやかに均整のとれた体とすらりとした脚。
本来は白いであろう肌は程よく日焼けしており、活発な貴族のご令嬢といわれても疑うものはいまい。
ただし、ただのご令嬢ではない。どこか楽しげな、しかし油断の無い目つきからして一目で優れた武人だと判る。
少しクセのある黒髪もあわせ、全体の印象は大型の猫科の動物――黒豹のようであった。

「ここにおいででしたか。キャンディス団長。」

がっしりとした体格の禿頭の男が声をかける。
キャンディスよりも20は年長だが、彼女の副官としてよく部隊を治めてくれている直属の部下である。
身長6フィート、太っているわけではない、筋肉質な分厚い体をしている。
若い頃は”ケンカ王フィンレー”などと呼ばれていた時期があったなど考えられないほど落ち着いた目をしていた。
しかし、本気になった彼がどれだけ恐ろしい狂戦士かは彼女が一番よく知っている。
フィンレーは海上であるにもかかわらず鋼の鎧を身に着け、"法の紋章"が入った盾を背中に背負っている。
海に落ちたらひとたまりも無いのではないかとキャンディスは思っているが、それにはついては口に出さなかった。

「フィンレーか。卿がここに来るということは、そろそろ時間か?」

はい、諸将は既にお待ちでございます、とフィンレーは返答するキャンディスに近づき、彼女にしか聞こえないように囁いた。

「やはり反対なのですか。この遠征に。」

半年ほど前のことだ。
<<大いなる海>>の東方大陸寄りでムルニネブイ船団を襲い示威行動を行っていた赤竜騎士団東方特別分遣隊より
靄の中からかなりの規模の島国が突然現れた、という知らせが"大協約"の連合諸国に届けられた。
前年の9月から既に東方大陸のトーア大陸同盟と戦争状態にあったため、連合国上層部はこの知らせに動揺した。
もしこれが同盟の信じる"混沌の神々"による召還だとするならば、同盟は新たな戦力を得た事になる。
しかし、これがもし連合国が奉る"法の神々"による恩寵だとするならば
――連合国は東方大陸にほど近い場所に新たな"大協約"国家を得ることになる。
そう考えた彼等は、東方特別分遣隊所属の魔道士に軍用隼に憑依しての大物見を命じた。
その結果は彼等の予想を超えるものであった。かの国では機械が空を飛び、鉄の船が海上を進むという。

――機械が空を飛ぶ!バネと歯車の寄せ集めが!?

その報告を受けたとき、機械が空を飛ぶという事実よりも、それをなさしめた思想がキャンディスには信じられなかった。
何の思考もしない、全くの無機物に空を飛ばせるだと?
彼女にとって、それは"空の王者"ドラゴンを筆頭とした空を飛ぶ生き物に対する冒涜以外の何者でもなかった。
そうでなくても、偉大なる魔法帝国である神聖エーべ王国にとって、魔法を一切解さない"純粋機械"などは許容できる存在ではない。
鉄の船にしてもそうだ。エーベの常識とはあまりにもかけ離れた存在といえる。
帆船はともかく、ある程度以上の巨艦は魔力で動くものだ、というのが彼等の考えだった。
例えばこの船、巨竜母艦"白鷺伯爵号"にしても魔力で稼動している。
海竜の背骨を文字どうりの"竜骨"とし、クラーケンの外殻を張り合わせて作った船体を
風霊シルフと水霊ウンディーネの加護により最大26ノットで動かす、全長800フィートを超える世界最大級の巨艦。
それが"白鷺伯爵号"である。
確かに、魔力を持たぬ平民水兵のために、多少の武装や船内設備には"機械"を取り入れてはいる。
だが、"機械のみで構成された船"等というのは栄光ある貴族階級である彼女の想像からはかけ離れていた。
それほどまでに"機械"を忌むべきものと考えていた彼女ではあったが、しかし――

「此度の遠征は馬鹿げている。貴重な戦力を消耗する前に、今からでも引き返すべきだ」

諸将との会議室の席上、キャンディスはそう発言した。
本来、ドラゴンはその脅威を見せ付けることに使用するべきであって、初手から戦場で使うようなものではない。
"必殺の刃"として、抑止力として――あるいは、半年前のように示威行動として――用いるべきなのだ、とキャンディスは考えていた。
今回の作戦目的のような、一つの国の王都を直接殲滅するような戦闘は確かに可能ではあるが、使うべきでない。
彼等の選択肢を狭め、捨て鉢な行動に向かわせる可能性がある――今であれば、同盟への加入がそれだ。

「それに、あまりにも無謀だ。敵は"魂無き機械"を空に飛ばすほどの混沌の加護を得ている。
 少なくとも、敵の戦力をもう少し正確に分析してからでも遅くは無いはずだ。
 そもそも、この攻撃で彼等が降伏するという保証がどこにあるというのか?」

諸将は沈黙している。だが、この場にいる大半のものは――赤竜騎士団長、炎竜騎士団長はもとより――キャンディスの言を当然の事と考えていた。
にも関わらず、この遠征は強行されていた。馬鹿げてはいるかもしれないが、上手くいけば一撃で全てを決することも出来るからだ。
「キャンディス卿の言も尤も!然しながら、今回の遠征は"大協約"最高諮問会議での決定事項であります!
 突然あらわれた"混沌の島国"を放置することなどできよう筈もありません!」
主席魔道士のクレアーが甲高い声で叫ぶ。キャンディスは彼を睨みつけた。今回の遠征を提案したのは彼だというのがもっぱらの噂だったのだ。

赤竜騎士団東方特別分遣隊からの報告のうち、尤も衝撃的だったものは軍艦と思しき鉄船に掲げられていた旗についてであった。
"その旗は赤い丸をほぼ中央に置き、八本の赤い光がそこから吹き出す様子が描き出されている"
似たような意匠の旗も掲揚されているようではあったが、それは問題ではなかった。
光と矢の違いはあるものの、"大協約"諸国にとってそれは"中央から八本の矢が現れる"混沌の紋章と等しいものであった。

――かの国は"混沌"から力を得ている!"混沌の紋章"を持つ鉄船は"混沌の神々"から授けられた船に違いない
そう結論付けられるまでそれほど時間はかからなかった。"法"に従わないのであれば、放置しておくのは危険すぎる。
こうして、ニホンなる島国を屈服させることは"大協約"諸国にとっての必須事項になった。

「これは連合国最高司令部の命令である。作戦に変更は無い。予定通り明日1500より攻撃を開始せよ。
 各竜騎士団長諸卿は配下の竜騎士とともに出撃準備をなせ。」
遠征司令官アンケル侯爵の冷徹な一言が会議室に響く。鉄仮面とも称される彼の声には一切の感情が篭っていない。
事実を端的に指摘した彼は会議の閉幕を命じた。

竜甲板は騒然としていたが、悲壮感は無かった。むしろ高揚しているといえよう。
「竜騎士は搭乗後直ちに発艦!攻撃編隊を組め!」 キャンディスは発艦作業員が叫ぶのを横目で見ながら、パートナーたる青竜のハイ=スカイに話しかける。

「たいしたものよね。この"白鷺伯爵号"の青竜騎士団、"大雀蜂号"の赤竜騎士団、
 そして"不撓不屈号"の炎竜騎士団。百五十騎以上ものドラゴンが一度に洋上から出撃するなんて。」

ベックマン伯爵家とは先々代から"契約"を続けているブルードラゴンのハイ=スカイはどこか面白そうに応じる。

「まあ私は300年しか生きていない若輩者だからよく知らなんだが、多分史上初めてだろうな。お嬢さん。」
「お嬢さんと呼ばないでよ、ハイ。これでも私は青竜騎士団長なのよ?」
「そうだったな、お嬢さん。」
ブルードラゴンは全く懲りていない。年季が違うのだ。先々代からというのは伊達ではない。

「ハイ、貴方は今回の作戦をどう思う?」

諦めたキャンディスは青竜にしか聞こえないように囁いた。
ドラゴンは――キャンディスはあんな大きな顔でどうやるんだろうといつも不思議に思うのだが――彼女に囁き返す。

「正直難しいだろう。機械のみで空を飛ぶほどの"混沌"の力など聞いたことも無い。
 しかし、悲観したモノでもあるまい。コレだけの数が揃っているのだからな。」

優れた騎士団長殿もおられるし、と言って片目をつぶると「それに」と続ける。

「我等は"バネと歯車の寄せ集め"などには負けぬよ。"空の王"たるドラゴンはな!」

そう言ったハイ=スカイは自信に溢れていた。キャンディスはドラゴンを見上げる。
陽光に照らされた青い竜鱗が美しく煌いた。そうだ、この"空の王"が負ける筈がない。

「・・・そうね、そうよね。ここまで来たら最善を尽くしましょう。」

キャンディスはうなずくと、その背に完全に一体化するようにしつらえられた搭乗室に上った。
ドラゴンの鱗で覆われているそれは、遠目にはドラゴンの背についた瘤にしか見えない。
座席についてベルトで体を固定し、搭乗口をスライドさせて締める。
暗くなった操縦室内で"契約の紋章"が刻み込まれている両手が光を放ちはじめた。
一旦は暗黒につつまれた視覚は、その虹色の輝きとともに光を取り戻す。
彼女は座席の前方に埋め込まれている魔法の球に手を置く。魔力が伝わり始めて前方のルーン文字が緑色に光り高度、速度など様々な数値を示す。
一通り数値を確認したのち中央全面にあるルビーを押し込む。
搭乗室の周りの壁が瞬時に透明になり周囲の光景が現れ、竜甲板の喧騒も聞こえてくるようになった。

"我はキャンディス・フォン・ベックマン。古の契約に従い、竜よ、我とともにあれ"
"我はハイ=スカイ、古の契約に従い、我は汝と共にあり。わが主よ、いざ敵を滅ぼさん"

思念波で意識を通じ合わせる"契約"に従ったやり取りが終ると、ハイ=スカイはキャンディスに話しかける。

"ようこそ、お嬢さん。さ、行きましょうかね"
"だから、お嬢さんは・・・いえ、今はそれどころじゃないわ。行きましょう、ハイ。敵を滅ぼしに"

彼女とハイ=スカイは文字通り一身同体となり、天空へと飛び立っていった。



――戦況は思わしくなかった。
最初は良かった。
炎竜の地上攻撃に対し、ニホンのやつらは攻撃魔法を打ち上げるのでもなく防御結界を張るでもなく、
ただ不思議な金属入りの黒煙を撒き散らすだけであった。
確かに直撃すればそれなりのダメージだろう。だが余りにも適当すぎる。
お粗末な攻撃だ、そう考えて放置しているうちに、敵の飛行機械が現れた。
それは太陽を背にして上空から降ってきた。
そして、信じられないことにフレイムドラゴンを一撃で十匹近くも叩き落としていったのだ。
キャンディスは信じられない思いでその光景を見ていた。

"馬鹿な・・・カルルス殿ほどの炎竜が・・・・"

ハイ=スカイは半ば呆然として二百年来の付き合いがある年上の炎竜の最期を見つめている。
そして、飛行機械との空戦が始まった。

作戦は失敗だ、キャンディスはそう思った。
確かに、青竜騎士団は敵の飛行機械を圧倒している。しかし、奴等に絶望を与えるまでには到っていない。
もともとこの作戦はニホンに対してドラゴンの威力を――連合国の強さを――見せつけ、短時間で屈服させることが目的だ。
それが成し遂げられない以上、この作戦は失敗だ。
百五十騎という小規模な国家ならまず半日もあれば間違いなく崩壊させることのできる巨大な戦力にも臆する様子が無い。
やはり無謀な戦いだったのだ――そう考えたそのとき、突然通信晶から主席魔道士の叫び声が聞こえた。

「見えた!"混沌の旗"を掲げる鉄の巨艦!あれに攻撃を集中するのだ!
 この港に集う船の中で一番大きいヤツだ!あれを沈めれば奴等にはもはや"混沌"の加護は無くなるはずだ!」

生き残った竜騎士たちはその言葉に従い、ドラゴンを制御する。
たちまちにして"混沌の巨艦"に火球と稲妻が集中し、大火災を起こすことに成功した。
艦の傾斜も始まっている。まもなく沈むだろう。
しかし竜騎士団の損失は全体で40%を超えており、最早許容できるレベルではなかった。

「ここまでだな。
 わが軍は街を焼き払い、"混沌の巨艦"を撃沈した。かの国へ与えた衝撃としては充分だろう。
 もはやこれ以上の攻撃に意味は無い。全軍撤退せよ。」

誰もが無言で呆然としている中、司令官の声が通信晶から虚しく響いた。

「信じられん・・・このような事が・・・」

"白鷺伯爵号"の竜甲板で帰還してきた竜を見ながらフィンレーは絶句している。
彼は敵の飛行機械を6騎撃墜し、停泊していた艦船にも大打撃を与え、無事に帰還していた。
誇るべき戦果ではあるが、しかしそれはこの無残な光景の前には何の意味も持っていなかった。
「出撃した青竜の1割2分、赤竜の2割8分、そして炎竜にいたっては9割5分が未帰還・・・か」
キャンディスは報告書を見ながらうめく。
"空の王"たるドラゴンが魂の無い"機械"如きにこれほどまでの大打撃を受けるなどは彼女の想像を遥かに超えていた。
我々は手出ししてはいけない相手に手を出してしまったのではないか?
そんな思いが彼女の脳裏に浮かぶが、詮無きことであった。
既に戦いの火蓋は切って落とされた。もはや後戻りをすることは出来ない。

「勝つために最善を尽くそう。今から戦術を練り直さねばいかん。フィンレー副官、力を貸してくれ。」

――貴方達の犠牲は無駄にしない。必ずや、混沌の手先たるニホンを打倒し、仇を取ってみせる。
全速で海域から離脱する"白鷺伯爵号"の竜甲板でキャンディスは犠牲になった竜とその竜騎士たちに復仇を誓っていた。

初出:2009年10月12日(月) 修正:2010年6月6日(日) 「青竜騎士団長の誓い」から改題


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