一九四一年十月十八日 東京

「これから、だな・・・」
薄暗い車内で東條英機陸軍大将は呟いた。彼の呟きを聞きつけた副官の赤松貞雄大佐が応じる。
「そうですね。いよいよ・・・」
「大陸での戦を終わらせるため、まずは米英を打倒せねばならん。既に国策要綱は定まっているからな。
 あとはそれに従うだけだ。」
東條大将は確信に満ちた口調でそう言い切った。

彼はこの日、第三次近衛内閣の後をついで第四十代の日本国首相に就任していた。同時に大将に昇進している。
東條は政治家という商売をあまり好いていなかった。だが、事態は”米英との戦争は不可避”で動かしがたい。
――であるならば、自分以上に陸海軍の統制を一本化できる人間はいない。
彼はそう考えていた。木戸内大臣から陛下もそのように上奏されている。
もっとも、その裏には彼自信の働きかけがある。加藤泊治郎憲兵司令部総務部長を通じて”お願い”をしているのだ。
彼自身、今回、東條に組閣の大命が下ったのは加藤の言を受けたものであると考えている。
木戸内大臣を半ば脅すような形にはなってしまったものの、それはやむを得ない。
なぜならば。

「陸海軍は国策要綱にしたがって既に動き始めている。後はその遂行に全力で答えるだけだ。
 現実問題として、近衛さんでは戦時内閣の首班は務まるまい」
「しかし、近衛さんの考える事もわかりませんな」
赤松大佐が言う。ここ数年を東條の副官として過ごしている彼は、東條の機嫌を取るように続けた。
「もともと、第一次近衛内閣での「近衛声明」が事態をややこしくした元凶でもあります。
 その上、あの「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を御前会議で正式に確定させたのは近衛内閣です。それを、今更――」
「近衛閣下は」
東條は元首相を馬鹿にしたように言った。
「定見というのが無いのだろう。その場その場で、場当たり的に適当な判断をしているに違いない。
 国内の政争という事ならばそれで良いのかも知れんが、軍事に関わる事にその態度で臨まれては困る」
「そうですな。しかし・・・」
「どうした?」
「陛下は、閣下に”英米との戦争回避”を望まれているという話も聞きましたが・・・」
信頼する副官の声に東條は黙り込んだ。東條はフォードの車外に流れる風景を暫く眺める。
確かに赤松のいう事も事実だった。実際、彼も陛下がそれを望んでいる事を知っている。
しかし――
「国家の事を考えるなら、時には君主を諫め、なすべき事をなすのが忠臣としての勤めだと考えている」
東條は瞑目して言った。眉間に寄せられた皺からは彼の深い憂慮を見ることができる。
「では・・・」
「成すべき事を成すだけだ。それが、私の――」
不意に前方で轟音が響き、東條の言葉は途中で遮られた。赤松大佐が反射的に叫ぶ。
「何だ、どうした!」
運転手はすぐには答えない。彼は急ハンドルを切ると、何かを避けるように走る。重心が偏り、東條は扉に押し付けられた。
事情を察した東條は軽く呻いてから運転手に叫ぶ。
「襲撃か!?」
運転手が叫び返した。狼狽よりも怒りの色が強い。
「敵です。最初の部隊は海軍の陸戦隊のように見えました!」
再びの轟音。しかし、車自体に損害はないようだ。速度を落とすことなく走り続けている。
運転手は車を激しく蛇行させながら続けた。
「ですが、今のは陸軍の試製対戦車砲のようです。どうやら、陸海軍部隊に包囲されている模様!」
「くそっ!何とか九段下までたどり着けるか?」
赤松大佐の言葉に東條が答えた。どこか落ち着いた声だ。
「海軍の陸兵もどきならともかく、陸軍までが動いているとなれば・・・九段下も危険かも知れんな」
「閣下!」
赤松の叫びを無視し、東條は深いため息をついた。彼は右前方を指差す。
「見てみろ。あそこの角に戦車がいる」
東條がいうとほぼ同時に、建物の角から九七式戦車が飛び出す。
砲塔の上にアンテナをつけているところを見ると指揮車両だろう。
運転手はそれを何とか交わした。
だが、九七式戦車は諦めていないようだ。快速を生かして東條の車に追いつこうとしている。
不意に戦車の機銃が火を噴いた。この距離では外しようがない筈だが、フォードは見事な動きでその機銃を交わす。
業を煮やしたのか、今度は主砲がうなりを上げた。当たれば乗用車など一撃で粉砕されるだろう。
しかし、その必殺の一弾は右にそれる。行進射撃になっているせいで、命中率が下がっているのだろう。
「どこまで逃げられるかな」
東條はむしろ楽しそうに言った。事実、彼の顔には微笑みが浮かんでいる。
「閣下!ここで諦めては――」
「諦めではない。これが、この東條の天命なのだろう」
赤松が言うのを手で制して東條は言う。同時に、彼の乗ったフォードが激しく振動した。
機銃が着弾したのかもしれない。避けようとする運転手が必死にハンドルを回す。
だが反応が鈍い。タイヤがやられたのかもしれない。彼は誰に言うと無く呟いた。
「是非もなし、だ」
次の瞬間、車は塀に激突し、彼の意識はそこで暗転した。

一九四八年十二月二十四日 東京・巣鴨

東條は不意にあたりが明るくなったのを感じた。すぐに目を閉じている自分に気がつく。
目を開けようとするが、うまくいかない。自分の体であるにもかかわらず、目を開けるのに手間取る。
長い事、目を閉じていたのかもしれない。
――そういえば何か、夢を見ていたような気がする。
彼はふと思った。日本が焼け野原になる悪夢を見せられていたような、そんな気がしたのだ。
東條は大儀そうに首を動かして辺りを見た。充分に注意が行き届いた、高級そうな丁度の部屋だった。
だがどこかそっけいない。東條は起き上がろうとするが、何かが引っかかって上手くいかない。
左腕がうまく動かない。よく見れば何かの管が指されている。その管が動きを邪魔しているのだ。
――もしかすると、ここは
不意に彼はここが病室かもしれないと気づく。よく見れば、高級そうな丁度と見えたものは医療設備のようだ。
設備の幾つかは彼も見たことが無いものだった。彼が意識を失ってから開発されたものなのかもしれない。
彼は寝台の脇に目をやった。花束や千羽鶴といった飾りの他、果物や菓子類がそれこそ山のように積まれている。
どれも非常に高価なものと思われるものだった。
――この様子からすると、帝国は良い方向に進んだのかもしれない
彼はここで初めて、自分がどうしてここに居るのかを思い出した。
そうだ、俺は、あの時――
不意に病室の扉が開いた。そこには見覚えのない白衣の男と、見覚えのあるスーツを着た男がいる。
「赤松!貴様、助かったのか!?」
かつて東條の副官だった赤松はその目に涙を浮かべて頷いた。

「あの時、突っ込んだ塀の向こうに偶然に憲兵隊がいたのです」
赤松は東條の寝台の横でぽつりぽつりと言った。既に東條の検査は終わっている。
若干の衰弱は見られるものの、一時間程度であれば話す事が出来るだろう、そう判断されていた。
「彼らの助けで、我々は助かりました。運転手は即死でしたが――」
東條はため息をついた。あれだけ優秀な運転技術を持っていても死ぬときは死ぬのだな、ふとそう思ったのだ。
赤松は話を続けている。
「結局、あれは”東條閣下の組閣は戦争を抑止するためだ”と考えたものたちの仕業でした。
 だから閣下を暗殺しようとしたのです」
「そうか。・・・お互い、きちんと話をするべきだったのかもしれんな」
東條は小さな声で言った。赤松が唇を引き結んで「そうですね」と言ったのを最後に会話が途絶えた。

「ところで・・・私はどのくらい眠っていたのかね?」
「七年間です。」
「七年か・・・貴様も中将くらいにはなったのか?」
東條がことさら明るく言った。赤松も調子を合わせる。
「ええ。先日、大将で退役いたしました。・・・閣下より先に、軍を離れることになりました」
「どうした。何かあったのか?」
赤松の顔に暗い影が差したのを東條は見逃さなかった。
「閣下はまだ目覚められたばかりですから、徐々に情報を集められた方がよろしいかと思います」
「いや、そうもいかん」
東條はきっぱりと言う。
「私は――今はもちろん違うだろうが――陛下から組閣の大命を拝したのだ。
 何が起きたのか、知る義務はあるだろう」
赤松は視線を落とす。暫く床を見つめた後、何事かを決意した顔になって言った。
「判りました。まだ早いとは思うのですが、閣下がそこまで言うのであれば・・・」
「そうか、判ってくれればいい。それでだ」
東條はそういうと部屋を見回した。
「この様子から見ると、私が寝込んでいる間に随分と景気も良くなったらしいな。
 七年前には考えられなかったような設備ではないか」
「はい、財政赤字はほとんどなくなり、国家の抱える債務も解消、財政規模も五倍強になりました」
「五倍!」
東條はうめいた。七年で五倍というのは尋常ではない。何をやればそこまでいくのか、彼には見当もつかない。
「何もかも・・・という訳ではありませんが、うまく運んだことは事実です」
赤松が東條の心を読んだように言う。
唇を引き結び「冷静に聞いていただきたいのですが」と前置きしてから続けた。
「世界の対日世論は、閣下が倒れられて以降、改善されました。
 禁輸措置も解除され――どころか、今では日本製品が世界各地で引っ張りだこです。
 自動車ですら、アメリカに輸出できるほどになりました」
「それほどなのか。よほどの改善がなされたのだな」
東條も自動車の大増産を狙っていた。だが、実際は難しいことも理解していた。
それが、今や売れまくっているという。産業界は相当に強化されたに違いない。
何が起きたのか気になった。だが、それ以上に気になることがある。
彼は目を閉じて深く息を吸い込み、一つ頷いてから赤松に問いかけた。
「それで、事変はどうなった?」
「大陸は激しい内戦の最中です。今、わが軍は国民党軍とともに中国共産党軍と戦っています」
どうして国民党軍と組むことになったのか、東條は不思議に思った。
――まあいい。詳しい経緯は後で聞けばいい。
彼はそう考えると、言葉をつづけた。
「そうか。・・・とすると、大東亜共栄圏構想はうまくいっているのだな?」
「大東亜共栄圏も順調に構築されております。仏印、インドとの連携も間近です」
「…流石にできすぎだが、英仏は何も言ってこなかったのかね?」
東條は尋ねた。いくらなんでも、ここまで事が上手く運ぶとは考えづらい。
「問題ありません。わが国が新たに迎えた指導者のもと、皆おとなしく説得に応じました。
 その他の国々軒並みおとなしくしています」
東條は心底関心したような声を上げる。
「なんと素晴らしい。八紘一宇が実現したわけだな」
「・・・まあ、そういう言い方もできますね」
その気が入っていない返事を不思議に思いながらも東條は続けた。
「それで、その指導者はいったい誰だ。会って話をしてみたい」
赤松が暫く考えてから頷いた。
「ダグラス・マッカーサー大統領です。ホワイトハウスとつなぎますので、少しお待ちください」

初出:2010年10月30日(土)

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