昭和十二年十一月六日 満州国新京 関東軍司令部

「何とかならんものだろうか」

関東軍参謀長東條英機はつぶやいた。聞きとがめた富永恭二大佐が声をかける。

「閣下、どうされたのですか?」
「どうもこうもあるか。石原の事だ」

富永の問いに東條は嫌そうに言う。

「左遷されてこの関東軍に来たというのに、自分の立場が判っておらん。大体、あいつがこの私をどう呼んでいるか知っているだろう?」

富永は言葉に詰まった。石原は周りを気にしないで放言して回っているのだ。知らない訳が無い。
だが、口にするには憚られる。特に、当人を目の前にしてはそうだ。
そんな彼の様子を見た東條が唇を歪める。東條は富永の方を見ずに吐き捨てた。

「”東條上等兵”だ。満州国の理想を理解しない、愚か者だという事だ。しかしだ」

東條は丸眼鏡を掛け直した。硝子窓から入る日の光に眼鏡が煌めく。彼は力強い口調で言う。

「支那事変は、あいつがやった満州国建国をなぞっているに過ぎん。この際、徹底的にやってしまうべきなのだ
「確かにそうですな。その脚本を書いた張本人が、今になって火消しを演じようとはおかしな話です」

富永が追従するように応じた。東條は富永に頷きかけると、再び先ほどと同じ言葉を発した。

「何とかならんものだろうか」

富永が首を傾げ、考えるような仕草を見せる。少しして、彼は邪な笑顔とともに東條に告げる。

「陥れて、軍を去ってもらいましょう。そうすれば全てが安泰です」
「どうやってだ?石原は左遷されて関東軍に来ている。そして、石原には実権を何一つ与えていない。どうやって陥れるというのだ」
「何はなくとも、人間には――いえ、特に石原閣下のような方には、必ずある特徴があります。それを使えば良いのです」
「一体なんだ?」

東條の問いかけに富永が笑みを浮かべる。

「口癖です」

東條は富永の言葉に眉を動かす。富永は東條の反応に満足げな表情を浮かべた。

「最近の石原閣下の口癖は”こいつはいい”です。これを禁止してしまえば良いのです。これを言ったら、軍法会議にかける、と」

東條は目を見開いた。

「何だと?一体、どういう理屈で禁止令を出そうというのだ?」
「”こいつはいい”は、安易に現状を肯定する言葉で、皇軍の将兵には相応しくない、とでも言っておきましょう。
 なに、理屈は何でも良いのです。要は石原閣下に軍を辞めていただく事が目的なのですから」

富永大佐は自信ありげにうなずいた。

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石原莞爾少将は機嫌が悪かった。無理も無いだろう。ここ最近、碌な事が無いのだ。
彼は新京の通りを満州国共和国に向かって歩きながら不機嫌に唸った。
そもそも、彼が関東軍に居るのも参謀本部を追い出されたからだ。事変不拡大を唱える彼が邪魔になったのだろう。
日和見の結果、石原を見捨てたのだ。
それではと関東軍の若手を説得に掛かった彼だったが、そう簡単に事は運ばなかった。彼らは石原の言う事を聞こうとしない。
武藤章などは『閣下の真似をしているだけです』と言い出す始末だった。これを聞いた石原は思わず絶句し、天を仰いだ。
彼が満州国を作ったのは中国と戦争をする為ではない。来るべき対英米戦に備える為だ。
しかし、それが陸軍を、ひいては日本国を苦難の道に引きずり込んでしまったのだ。今となっては何もかもが手遅れのように思える。
そして、その感想を裏付けるように――

「人の口癖を禁止するなど、全く下らん連中だ。やり方が馬鹿馬鹿しすぎる。とても一国の陸軍を牛耳る連中のやる事ではない」

石原は見下げ果てたと言わんばかりの口調だ。傍らの古市晴彦が取りなすように応じる。

「仕方ありません。閣下が余程目障りなのでしょう。ですが、閣下は間違っておりません。その証拠に」

古市は通りの向こうを指差した。満州人が経営する商店の前を日本人とドイツ人が何やら談笑しながら歩いているのが見える。

「五族共和と世界平和を体現したような光景じゃありませんか。この光景を大陸中に広げなければいけません」

石原は微笑みを浮かべてつぶやいた。

「確かに、こいつはいいな」

彼がそう言った次の瞬間、古市が表情を変えた。彼は石原の袖口を強く引き、諌めるように囁く。

「閣下!いけません!どこで誰が聞いているか判りません。自重されたほうが」

石原も気がついたのだろう、油断無くあたりを見回す。見える範囲には憲兵はいない。彼は安堵したように息を吐く。
まずは大丈夫のように思えたのだ。
だが――
唐突に、角から憲兵の一群が現れた。石原が口癖の言葉を言うのを待ち構えていたのだろう。
先頭にいるは厭らしい笑顔を浮かべて石原を見つめている。石原はその男に見覚えがあった。彼は呆れたように言う。

「”東條の腰巾着”の富永か。貴官の仕事は情報主任参謀だろう?こんなところで、憲兵隊と何をしているのだ?」

富永が笑みを深めた。キリスト教徒であれば魂を刈り取る死神のようだ、そう形容するだろう。

「閣下、いけませんな。関東軍の名で出された軍律を破られましたな。
] ”こいつはいい”、そう言った者は軍法会議にかける、そう布告している筈です。
 本来なら不問に付すべきかもしれませんが、聞いてしまった以上はどうにもなりません」
「茶番だな。下らん」

石原が鼻で笑った。富永はそれには答えず、憲兵隊隊長に向かって命じる。

「乱暴な事はするなよ。仮にも将官だ。少なくとも、今はまだ、な――石原閣下を関東軍司令部へとお連れしろ」

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彼が連れ込まれたのは東條英機の執務室だった。憲兵隊の他に、速記者も控えている。

「ここで即席の軍事裁判か?貴様が裁判長というのはぞっとしないな」

石原の言葉に東條は眼鏡の奥で目を光らせた。

「気をつけて喋るんだな。速記者を控えさせているのは何の為だと思う?」
「つまらん言質であっても証拠として残そうというのだろう。いかにも小人物が考えそうな事だ」
「気をつけて喋れ、と言った筈だ。まあいい、貴様もこれまでだ。
 ”こいつはいい”と言った事実が認められたら、軍を辞めてもらう事になるからな」

東條はそういうと速記者に向かって命じる。

「これから話す事はあらゆる記録を残せ。石原が言い逃れできないようにな」

速記者が記録を取り始めたのを確認した東條は石原に向き直った。

「むろん、これは正式な軍事裁判ではない。だが、正式な拘束力を持つ会議体であることだけは宣言しておこう。
 この会議で”こいつはいい”と本当に言ったとあきらかになれば、正式な軍法会議にかける」

彼はそう言うと速記者と憲兵隊を指差した。

「彼らは証人だ。むろん、中立的な者を選んだ。そこは公平だ。後からこの記事録を改竄するような事も無い。
 貴様に後で色々言われたくないからな」
「まったく、下らん事には知恵が回るのだな」

石原の言葉を無視し、東條は開会を宣言した。

「では、始めるとしよう。まず、事実関係を確認する。情報主任参謀によれば」

彼は富永にうなずきかけた。

「貴官、石原参謀副長は禁止されている”こいつはいい”という言葉を言ったということだな。これは事実か?」

石原は首を傾げた。眉根を寄せ、しきりに何かを思い出そうとする仕草を見せる。
その場にいる一同がじれ始めた頃,彼は首を振って答えた。

「そんな事実は無いな。私は覚えていない」
「嘘ですな、閣下。失礼ながら、私自らが閣下が言うのをちゃんと聞いたのです」

富永が気色ばんだ。東條はそれを片手で制する。彼はむしろ穏やかに言った。

「石原参謀副長、気をつけて発言するのだ。君の発言は記録されている。偽証罪となれば、より罪は重くなるのだぞ?」
「しかし、私はそんな事を言った覚えは無い」

石原は改めて言った。自信に満ちた、堂々とした態度だ。東條が眼鏡をずらし、上目使いに石原を見つめる。

「覚えていなければ良いというのであれば、それは間違いだ。覚えていないというのなら、思い出してもらうまでだ」

東條はわざとらしく手を組み、石原をねめつけた。蛇が鎌首をもたげているような姿勢だ。
それを見た石原は顎をあげ、傲然と言い放つ。

「私は”そんな事を言った覚えが無い”というだけだ。富永君が聞いた事が何かくらいは覚えている。
 人の話を最後まで聞いてはどうですかな?」

東條は動作を止め、石原を見つめる。粘度の高い視線だ。彼はその視線に相応しい、まとわりつくような口調で言う。

「ほう、何を言ったというのかね?」

石原はその視線を真っ向から受け止める。馬鹿にしたように言った。

「”ドイツワイン”、そう言ったのだ。ドイツ人が歩いている向こう側にワインが見えたからな」

次の瞬間、富永が机を叩いた。重い低音が室内に大きく響く。

「馬鹿な。貴様は確かに、禁止されている”こいつはいい”という言葉を言ったではないか。俺の耳がおかしいとでも言うのか?」

石原が顔を歪めた。

「気をつけろ。その言葉は上官侮辱罪に当たるぞ」

その言葉を聞いた東條が呵々大笑した。富永も笑い始める。参謀長室に二人の笑い声が響いた。
しばらくして、彼は石原を見つめ、心底驚いたという表情を作ってみせる。どこか芝居がかった態度で、わざとらしく言う。

「上官に向かって”上等兵”などと平気で言う貴様が、それを言うのか。こいつはいい」


初出:2011年5月6日(金)

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