昭和十六年十一月末日。横須賀に停泊している聯合艦隊旗艦<長門>は緊張に包まれていた。
首相兼陸相、東条英機大将が他数名の陸海軍重鎮とともに訪問してきているのだ。
理由は一切明かされていないが、おそらくは対英米戦についての何か重要な事項なのだろうというのは皆が理解していた。
南雲中将率いる第一航空艦隊が行方をくらましている事もそれを上書きしている。
<長門>の緊張はたちまちに広がり、横須賀鎮守府全体が非常な緊張感のもとにあるのだ。


「こちらです」

<長門>に乗り込んだ一同を聯合艦隊参謀の渡辺安次海軍中佐が案内する。
東条をはじめとした陸軍の高官達は興味深げに艦内を眺めながら、入り組んだ通路を目的地に向かう。
目的の場所が近づいた頃、何かを目にした東条が不意に声を発した。

「俄かには信じられん話だったが、この様子をみると本当なのかもしれんな」
「ええ。ですが、あまり大きな声では」
「判っている。・・・公にはしたくないだろう事は容易に想像がつく」

彼らは目的地にたどり着いた。そこは<長門>の後部甲板にある個室だった。
だが、扉には奇妙な文字が書かれた札や妖しげな注連縄などが施され、まるで何かの宗教施設のようにも見える。
渡辺中佐はむしろ淡々と言った。

「先任参謀の個室です。山本長官が中でお待ちです」


渡辺中佐が扉を開けると、汗と白檀と麝香の香りが混じった威容な空気が噴出した。
そのあまりの怪異な臭いに一同が思わずたじろぐ。慣れている筈の渡辺中佐ですら顔をしかめていた。
舷側の窓を閉め切っているのか、部屋の中は薄暗い。僅かな明かりは、頼りなげに揺れる蝋燭の明かりだけだった。
中にいる人物が入室を促すように一同に向けて頷いた。山本五十六聯合艦隊司令長官だった。
先頭にいた東条が少し顔を顰めながらも部屋の中に入ると、他の高官たちもその後に続く。
全員が入室した後、渡辺中佐が後ろ手に扉を閉めて鍵をかける。外に誰かが立った気配がした。
武装した陸戦隊員と陸軍憲兵だ。今、このさして広くない先任参謀個室にいる人物は誰もが重要人物なのだ。
しかし、と渡辺中佐は部屋を見まわして苦笑する。しかし、この部屋はそれにふさわしい雰囲気とはとてもいえない。
窓が閉めきられ、蝋燭の中で妖しげな数種の香と汗の臭いが混じっているだけではない。
床は書き損じと思しき藁半紙を丸めた紙くずであふれている。文字通り足の踏み場もない。
机の上においてある灰皿からは吸殻があふれ出しており、机の上には山になるほど積もっていた。
壁には何やら祭壇らしきものが設えられ、曼荼羅を背にして何やら神像らしきものが飾られている。
さらに、天井には妖しげな模様がこの世のものとは思えない細かさでびっしりと描かれていた。
このようなものが<長門>に元からある筈はないから、この部屋の主が作り上げたに違いないだろう。
目が慣れるにつれこれらを書いた男の姿が目に入っった。
彼は部屋の片隅で半眼に薄い笑顔を浮かべながら褌一本で座禅を組んでいた。
長身禿頭の彼がそうしている様は、まるで印度の修行僧であるかのようにも見える。
陸海軍の高官達はあるものは顔を顰め、あるものは半ば気圧されているのに後ずさるそぶりを見せた。
その反応を見ていた山本五十六聯合艦隊司令長官は満足したかのように頷き、言葉を発した。

「お忙しいところ誠に申し訳ありません。既にお聞き及びのこととは思いますが――」
「細かいところは良い。その男が黒島大佐で間違いないのか?」

東条首相が山本の言葉をさえぎった。話の腰を折られた山本だったが、それを気にすることもなくにこやかに告げた。

「そうです。彼こそが、この後数十年に渡る未来を見ることができる男。いわば、預言者なのです」

山本の言葉に一同がどよめいた。


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元々、黒島は変わったところのある人材として知られてはいた。
書きかけの書類が床に捨てられていたり煙草の吸殻が山のようになるのは別に今に始まったことではない。
褌一本でいる事すら、夏であればほぼ常にそうしていたとさえも言える。彼としては特に異常というわけではなかった。
黒島付の従卒は黒島の事を"変人参謀"という名で呼んでいたが、これはむしろ彼にとってはほめ言葉なのかもしれない。
山本にしても、彼のそういった突飛な部分が役に立つと考えて聯合艦隊の先任参謀として重用していたのだ。
"航空部隊による真珠湾奇襲作戦"という、言ってみれば奇策中の奇策の全般を任せるのに、これほど適切な人材はいなかった。
彼はこの一年というもの、ひたすら煙草をすいながら、風呂にも入らず、寝食を忘れてその大作戦の骨格作りに没頭した。
実際のところ、その奇行は秋山真之中将の日露戦争時を真似ているのではないか、という噂もあった。
物事に集中するとそれ以外が見えなくなる秋山中将にあやかろうとしているのに違いない、というものだ。
そして、当初は山本もそう考えていた。今年の六月を超えたあたりから黒島の様子はどんどんおかしくなっていった。
始めは曼荼羅だった。壁にかけられた曼荼羅を見た山本の何気ない問いに対して、黒島は”真理を探す”と答えたものだ。
彼が何を言っているのかは全く理解できない山本だったが、まずは放っておく事にした。
彼に任せているのは空前の大計画でもあるし、報告などの業務にも取り立てて影響はない。
ならば、好きにやらせてやろう――山本はそう考えたのだ。
そして、それが間違いの元だった。
曼荼羅だけだった装飾は、やがて天井一杯に描かれた"生命の樹"に発展し、床には魔方陣が描かれ、壁には真言が書かれ――
そして、現在の<長門>先任参謀個室が示す、非常な混沌をあらわす部屋にと変わっていったのだ。
流石の山本もこの期に及んでおかしいと思ったのだろう。十月になって山本は黒島の部屋を訪れ、いくつか言葉を交わした。
その結果、驚くべき事実を知ることになったのだ。

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山本長官は東条首相他の高官を見渡して言った。

「何がどう作用したのかはわかりませんが、黒島大佐は確かに未来を予測する力を手に入れたようです。
 事実、相撲の勝敗から始まり金相場、独ソ戦の経過までも的確に当てましたからな。
 ・・・これについては、くだくだしく説明はいたしますまい。詳細は、皆様にも資料をお渡しした通りです。」
「見させてもらった。山本君以外が言い出したのら、即刻葦原将軍と同じ病院に入ってもらうところだが」

嶋田繁太郎海軍大臣がやや不機嫌に言う。
山本は苦笑した。そういえば、嶋ハンは神官の家系だったな。明らかにこの状況が面白くないのだろう。
彼はすぐにその苦笑を消して、真顔で一同に告げる。

「すべて事実なのです。その証拠をこれからお見せします」

彼はそういうと座禅を組んでいた黒島に向かって小さく頷いた。
黒島は半眼のままうなずく。彼は二言三言なにか唱えると、部屋の中に風が渦巻いた。
だが窓も開いていなければ空調もそれほど聞いているわけではない。だが、確かに風が巻き起こっている。
彼は何か抑揚をつけて念じながら手を不思議な形に次々と組み合わせる。印を結んでいるに違いない。
吹き抜ける風が更に強まると黒島のもとに集まっていき、そして――

”渇ッ!”

黒島が一際大きな声で叫んだ。次の瞬間、彼は空中に浮かび上がる。
あっけにとられる一同を前にして、かれは更に手を大きく動かす。その動きに従い、空中に何か大きな窓のようなものが作られた。
そして、その窓には何か風景や人物らしきものが移っている。まるで映画のようではあるが、映画でないことは明白だ。
流石は高級軍人というべきか、怪異の原因追求よりも内容のほうに興味が移ったらしい。
「好奇心のないものは将軍になれない」という言葉は、この極東の地でも有効なものだったようだ。


始めに写ったのはここにいる者たちの過去の映像だった。
日本海海戦で山本が指を失った場面や東条が第一次大戦でみた光景など、自分以外が知りようのないものが次々と映し出される。
次第に高官たちはこの黒島の”力”が本物である事を疑わなくなった。
もっとも、仮にこれが作り物だとしても同じことだろう。これだけの情報を準備できる者に逆らおうとは誰も思わない。
彼らが黒島の”力”に納得したとき、写る光景が未来に切り替わった。明日に予定されている御前会議の風景だった。
彼らはそこでの会話を食い入るように聞く。もう何度も聞いているのか、山本は落ち着いた表情のままだ。
光景が切り替わった。空母から次々と発艦していく航空機が映し出される。

「これは昭和十六年十二月八日、真珠湾を攻撃するために発艦する第一航空艦隊の航空機です」

黒島による解説が入る。陸海軍の高官たちは思わず身をすくませた。
考えてみれば、彼らがこの部屋に入ってから日本語として黒島の声を聞いたのはこれが初めてだった。
どこか神がかったような陶酔した口調で話す黒島の声は、しかし不思議と耳に心地よかった。
場面が切り替わり、軍港らしきところで航空機が乱舞する姿が映し出された。
戦艦らしき巨艦に水柱が立ち上るたびに高官たちが感嘆の声を上げた。
だが、この作戦の立案者である山本は無表情を崩さない。ここから先の台詞を、既に何度も聞いているからだ。

「しかし、一見成功に見えるこの攻撃は実際のところ不徹底だったと言わざるを得ません。
 重油タンクや工廠などの基地機能を破壊しなかったことに加え、近くにいた航空母艦を見逃しているからです。
 ですが、以前の山本長官のお言葉どおり、聯合艦隊は半年は勝ち続けます」

プリンス・オブ・ウェールズの航空攻撃による撃沈。陸軍によるフィリピンとシンガポールの占領。
インド洋での南雲艦隊の活躍。全てが事前に夢想していた結果をも超える大戦果といえた。しかし――
次に映し出された光景に一同は言葉を失った。巨大な空母が炎上していたのだ。

「ミッドウェイ海戦において、帝国海軍は開戦以来の主力であった空母四隻を失う大敗を喫しました。
 そして、ここから――帝国陸海軍は追い詰められていくことになるのです。」

そこからは次々と光景が入れ替わる。
ソロモン海で次々と沈んでいく海軍の軍艦。ガダルカナル島で飢えに苦しむ陸軍将兵の姿。
雲霞の如く押し寄せる敵機の前にもみつぶされていく陸海軍の航空機。
聯合艦隊司令長官、山本五十六の戦死が写ったとき、一同は思わず山本に視線を送った。
だが山本は動じた様子もなく映像に目を向けていた。まるで、それが彼に与えられた罰であるかの如くに。

光景はさらに移り変わる。この頃になると、勝利を描いたものは殆ど無い。
インパール、ポートモレスビーなど現地の状況を無視した攻略作戦の立案。
フィリピンを巡る激戦。爆弾を積んだまま敵艦に特攻していく兵士たちの姿。
重爆と艦載機の攻撃を昼夜の別なく受ける、日本の諸都市。焼夷弾が落とされ、機銃掃射の土煙が地面を舐めるように這う。
沖縄に上陸する米軍と、それを迎え撃つために出撃し、坊之岬沖で撃沈された史上最大の戦艦<大和>。

広島と長崎に落とされた新型爆弾は一発で全市を破壊した。そのあまりの威力に、高官たちは言葉もない。
ソ連の参戦。護るべき日本人を見捨て、独自に戦闘を行うしかない抜け殻となった関東軍。
星条旗を掲げる戦艦での降伏文書の調印の際にはすすり泣きするものもいた。
やがてコーンパイプを加えた将軍が降り立ち、闇市が立ち並び始める。ここからは、もはや戦争後の光景だ。
日本はアメリカと同盟を結び、ソヴィエトと対立していく未来が映し出されていた。

「もはや戦後ではない」というニュース映画のタイトルらしきものの後に写る、繁栄を取り戻していく姿。
皇太子の結婚、延期されたオリンピックの開催。それにあわせた、アウトバーン建造と弾丸列車計画の実施。
昭和五十年代の米の輸入自由化にまつわる騒動やその後の"バブル"と呼ばれる異常景気の崩壊を語り、彼はがっくりと首を落とす。
彼は座禅を組んだまま空中から床まで落下する。衝撃音とともに床にたたきつけられた黒島は、しかしその座禅を崩さなかった。
山本長官が覗き込む。どうやら意識を失っているようだ。渡辺中佐が倒れかけた黒島大佐の体を支えてゆっくりと寝具に戻した。

むせ返るような白檀と麝香の香りの中で、山本五十六が口を開いた。

「どうですか。陸軍だ海軍だと争っている場合ではありません。
 我々がはじめた戦争のお陰で、子々孫々の代まで禍根を残すようなことがあってはならないでしょう。
 ここは一つ、わが国の未来のため、一致協力してこの戦争を回避するために尽力しようではありませんか。」

一同の間に恐ろしいまでの沈黙が下りた。その中でしばし瞑目していた東条英機首相が言う。

「話は大体判った。明日に予定されている御前会議には、黒島君にも出席してもらおう。
 事は非常に重要である。陸軍は自分が抑えるようにするが、場合によってはご聖断を仰ぐこともあるだろう」

彼はそう言って頷いた。ほっとする一同を前に、彼はしきりに頷きながら自分の理解を語った。


「要するに、米の配給制はあと五年以上は続く、ということだな」


初出:2010年8月30日(月)

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