昭和16年 9月3日 ロシモフ大公国首都 トーア近郊

「これが世界樹か・・・。」
神重徳中佐はその威容に圧倒されつつ独語した。ともにロシモフにやってきた他の随員達は声もない。
ここに来るまでは鬱屈した気分を覚えたこともある彼だったが、この光景を見ただけでそんな気分は吹き飛んでいた。

神重徳は政府・軍・民間の有識者からなる非公式な使節団の一人としてトーアにやってきている。
軍令部第一部第一課兼陸軍参謀本部参謀であり、かつて大本営の報道部員も勤めていた彼はこの任務に最適といえた。
しかし、本人は違う感想を抱いている。
-得体の知れない"新世界"への代表団と言えば聞こえは良いが、ある意味では厄介払いともいえるだろうな。
 ドイツ勤務から帰国後、ドイツ贔屓ということで山本大将や井上中将から睨まれているし、最近は及川海相にも煙たがれているからな。
彼のこの感想はやや自虐的に過ぎるとはいえ、それほど間違ってもいなかった。
実際、"新世界"への"転進"が明らかになってくるにつれ、山本は海軍内の親ドイツ派を一掃するべく動いている。
”もう存在しない国に義理立てしても仕方あるまい”が最近の山本の口癖になっていた。
及川海相はその立場もあってかそこまで過激ではないが、それでも三国同盟締結の際に神にごり押しされた事をよく思っていないのは明らかだった。

-島流し同然の視察任務というのもどうかと思っていたが、それほど悪く無さそうだ。
彼は新興の自動車会社、トヨタが作り上げたバスに揺られながら思っていた。
世界樹が見えたとはいえ、ここからトーアまではまだ50キロ以上はあった。到着まであと二時間以上はかかるだろう。

神の見るところ、トーアは非常に文明の発達した都市だった。もちろん、科学文明ではない。魔法により作られた文明だった。
町並みは良く考えて作られている。放射状に伸びる道路は幅広で、しかもベトンで舗装までしてある箇所さえある。
大部分の建物は生きた樹木を組み合わせて作られている。例外的に石造りの建物もあるが、蔦や蔓薔薇などで覆うことで町としての一体感を保っている。
事前資料によれば、全ての建物で上下水道が完備されているという。

神は車内の随員達を見回した。だれもが予想以上に完成された都市機能に衝撃を受けているようだった。
-ここは、れっきとした文明国だ。それも、最低でも日本と同等程度の文明を誇る国だ。
 街を行く荷車の大半が得体の知れない巨大な獣に引かれていようと、ほとんど全ての女性が半裸同然の格好をしていようとも、だ。
誰もがそれを感じていることに、神は少し満足していた。
これならば、少なくとも相手を蛮族と舐めてかかることはないだろう。

彼ら非公式使節団の目的は複数ある。政治的、軍事的な目的もあったが、商業的な目的も含まれている。
どのような"新世界"に来たのであれ、国内を維持・成長させていくためには交易相手国が必要だからだ。
国際分業の中で、日本がどのような地位を示すことが出来るか-その可能性を見抜くことは不可欠だった。
幸いなことに、"新世界"の近隣諸国は日本に好意的だ。
これには"転進"直後の七月に陸軍の病院船が"竜"に襲われていた船の乗員を救出した事が大きく影響している。
使節団の交渉次第では、この近隣諸国の国際組織-トーア大陸同盟への加入も可能になるかもしれない、そう言われていた。
そうなれば、日本は有望な大規模な市場を得ることが出来るだろう。それも、利幅の高い工業製品の市場だ。
日本が中国と戦争をしてまで得たかった市場が、労せずして手に入る-日本の政財界は色めきたっていた。

とはいえ、神は同盟加入云々には直接には関わっていない。
軍令部、あるいは参謀本部から来た随員達は-あくまで非公式にではあるが-この国の軍人達との情報交換が主任務だった。
「いや、"新世界"の軍備というのは面白いですな。参考になることばかりです。そう思いませんか、神中佐?」
陸軍から派遣されてきた辻という名の男が上気した顔で言った。禿頭で丸眼鏡をかけた男だ。
「確かに。"魔法"や"竜"、それに"魔剣"-半年前なら、笑い話にもならないものばかりだ。
 だが、これらは確かに存在しているし、この国の軍事技術の礎にもなっている。」
「そうですな。これらをどうにかしてわが軍に取り入れなければいけません。」
彼はそう言うと、得体の知れない化け物が表紙に書かれた書物を読み始めた。
辻はロシモフに着くなり"翻訳の眼鏡"という魔道具を大枚はたいて購入していた。そうして、魔道書の原書を読み漁っていたのだ。
今、彼が読んでいるのは何かの"魔道書"のように見える。しかし、その禍々しい装丁からして碌な代物では無さそうだった。
-確かに熱心であるのは認めるが・・・参謀本部の英才というのは良く判らんな。
ぶつぶつとつぶやきながら何やら手帳に書き込んでいく辻を見ながら、神はため息をついた。

昭和16年10月15日、神はトーアで大佐昇進の辞令を受けた。
神は特に感慨も無かった。何しろ、英米と戦うことはほぼ永遠にありえないのだから-
-そのうち陸海軍ともに縮小されるだろう。マル四も、どこかで中止されるかもしれん。
 これからは経済の時代だ。いっそ、きっぱり辞めて家業の焼酎屋を継ぐのも悪くないかもしれないな。
彼がそんなことを考えているとも知らず、ロシモフで日本料理を振舞うために使節団に同行してきていた料理人が声をかけてきた。
「昇進おめでとうございます。何か食べたいものがあれば、ご要望ください。何でも作ります。いえ、是非作らせてください。」
神は考え込んだ。そういえば、こちらに来てからは、エルフ族の料理ばかり食べている。そうだ、久しぶりに-
「では、カレーを作ってくれませんか。ここ2ヶ月ほどカレーを食べていない。味を忘れそうだ。」

神が昇進祝いの料理としてカレーを選択した事はちょっとした波紋を呼んだ。
「昇進祝いにカレーはあるまい」という冗談めかした話として始まったそれは、あっという間にロシモフのエルフ族高官の間まで広まっていったのだ。
もともと共通な話題が少ないせいもあったのだろう。軽い会話の種として始まったはずだが、話はだんだん大きくなっていき-
「エルフ族長会議のメンバーがお忍びでカレーを食べに?何でまた・・・」
「ああ、エルフ族の間でも"切れ者"として通る神重徳大佐が昇進祝いとしてまで欲しがるカレーとはどのような料理か、いたく興味を抱かれたようでね。
 気楽に振舞える料理でもあるし、"日本料理"の紹介としてもちょうど良いのではないだろうかと思うよ。」
外務省の代表として使節団に同行していた吉田茂は皮肉げな笑みを浮かべながら言った。神はあまりの事に頭を抱えたくなった。

カレー晩餐会が開かれたのは10月24日だった。
話が大きくなったため準備期間が必要でもあったし、折角なら海軍らしく"金曜カレー"にしようではないか、そういう話になったからだった。
そして、今。立派な晩餐用のテーブルの上に置かれた、磨きぬかれた銀食器にこんもりと盛られているのは-
まごう事なき海軍式のカレーライス。香辛料と小麦粉をいためてルーを作り、牛肉を煮込んで作ったカレーを皿に盛ったご飯の上にかけたものだった。
立派な細工を施されたグラスに銀のスプーンが浸してある。日本から来た料理人は妙なところで凝り性のようだ。

「ほほう、これがカレーですか。一口いただいても宜しいですか?」
エルフの長老は尋ねる。いつも飄々としている彼だったが、その表情は心なしか興奮しているように見える。
「あなた方の口にあうかどうかは、判りませんが・・・」
神重徳大佐は控えめに答えた。
-大佐になって最初の重要任務がエルフ長老にカレーを食べさせることとはな。彼は苦笑した。吉田茂が神の言葉を引き継ぐ。
「もちろん、族長方の分も充分に用意させております。日本の味をどうかご堪能ください。」
吉田の言に皆が頷く。カレーは日本発祥ではないことを日本側の出席者は誰もが当然の事として知っていたが、それを指摘するほど無粋でもないのだ。
「では、早速。」
長老はそう言うと、優雅な仕草でスプーンを手に取り、カレーライスを一口ほおばる。他の族長もそれに続いた。そして-
次の瞬間、彼らは硬直していた。日本の使節団は慌てる。まさか、エルフにとっては毒だったというのか?責任を感じた神は青くなりながら声をかけた。
「お気に召さないようでしたら、無理に食べずとも-」
彼は最後まで言葉を発することが出来なかった。
そこまで言ったとき、エルフ達の目が異様なまでに輝き、いつもの優雅な仕草をかなぐり捨ててカレーを食べ始めたのだ。
いや、それは最早飲んでいるといっても良い有様だった。たちまちにして皿は空になった。
日本の代表団があっけにとられている中、エルフ達は次々とおかわりを要求する。
-結局、エルフたちは一人三皿ずつカレーを食し、大満足で帰っていった。日本人たちはカレーを食べるのも忘れ、狐につままれたような表情を浮かべるのが精一杯だった。

翌日から、もともと好意的だったエルフ族の態度はさらに親日的になった。
日本人たちは問われるままにカレーレシピを伝え、それによって関係は一層親密になったのだ。
カレーが影響しているのは間違いないが、使節団の面々には何が何だかわからない。
エルフ達に聞いては見たものの、彼らはひどく興奮しており、その答えはさっぱり要領を得ない。

日本の使節団にそれを説明してくれたのはエルフではなかった。
「彼らは"魔力の根源"を補充してくれる食物を長年捜し求めていました。
 そして、香辛料をふんだんに使ったカレーライスこそがその理想を実現したのです。
 エルフは日本を最恵国待遇で迎えてくれるでしょうな。」
辻正信は自信に溢れた様子で断言した。神は思わず問いかける。
「何でそんな事が判る?単に、味が好みだっただけかもしれないだろう?」
「彼らの魔法の歴史について記載のある、この書物に"香辛料を使った魔力の補充"について書かれていました。
 実際、今は"火酒"というものを魔力補充に使っているようですが、これにも香辛料が加えられています。
 魔法の行使には"秘薬"とかいうものを使います。希少材料が多いのですが、香辛料も含まれて居ます。
 おそらく、"魔法"には香辛料が不可欠なのでしょう。
 自分の読み方が間違っている可能性もありますが、まず間違いありません。」
辻正信は相当の自信を持っているようだった。

結局、全ては辻の言うとおりだった。
少ししてエルフも落ち着いたのだろう、辻とほとんど同じ説明を日本使節団を集めて行ったのだ。
このことによって辻は一躍「魔法通」として名を馳せる事となった。
「貴公、我等が説明するよりも早く事態を見抜くとは-魔道書を読んでいたとはいえ、やるな。」
エルフ第二支族長のアレクサンデル・カザリンが言った。"エルフ最強の男"とも呼ばれる彼に呼びかけられるのは大変な栄誉といえる。
辻はそんな風評に臆することなく答えていた。
「与えられた情報を正しく分析すれば、自ずと正しい答えがでるものです。」
彼のその返答を聞きながら、神は何故か落ち着かない気分にさせられていた。
-何故だろう、今の会話に何もおかしなところはないはずなのに。何か違和感が、嫌な予感がする。

-日本のトーア大陸同盟加入は、昭和16年12月8日に無事行われた。しかし同時に、それは苦難の始まりでもあったのだ。
非公式使節団の面々も、各々の場所で活躍していくことになるが、それは、また別のお話-

初出:2010年1月1日(金)

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