平成二十二年 八月十二日 東京
”九段下、九段下。東京地下鉄東西線、半蔵門線はお乗換えです”
都営地下鉄新宿線の車内に女性の声で車内放送がかかる。
その合成音声を聞いて、それまで優先席で眼を閉じていた老人が静かに立ち上がった。
仕立ての良い英国風の背広にパナマ帽をかぶり、ステッキを突いて歩く姿はなかなか堂に入っている。
大正六年生まれで今年九十三になるはずだが、とてもそうは思えないほど軽快な動きだった。
彼は軽い微笑みを浮かべながらあたりを見回す。
学生は夏休みに、大人は盆休み入っているせいだろうか車内の人影はまばらだ。
立ち上がり、降りようとしている人影はそれほど多くはない。だが、決して少なくもない。
彼は笑みを深めた。最近色々と言われることもあるが、まだまだこの国も捨てたものではない、そう思ったのだ。
車両が軽く揺れる。次の瞬間、自動扉が開き、喧騒といくらかの熱気が入り込む。
最近は”環境に配慮する”という美名の下、電力消費量の削減のために空調設定温度が上がっているのだ。
老人にとってはありがたい話ではあったが、同行している若い者たちにとっては堪えるらしい。
降りるなりうんざりとした顔になった彼らに苦笑を向ける。
確かに老人も若い頃は極端なほどに――それこそ長袖を着なければいけないほどに――冷房を利かせていた覚えがあった。
そのままホームで深呼吸を一つし、ステッキの音も軽やかに歩き始める。
足どりは九十三という年齢をまったく感じさせることがなく、どこか不自由があるようには見えない。
それもそのはずで、彼がステッキを持ち歩いているのは単に装飾品として持ち歩いているだけなのだ。
彼はその顔に再び微笑を浮かべると軽やかな足取りのまま自動改札に切符を入れる。
昭和三十年代に一般的になって以来既に五十年近く経過しているが、老人は未だにこの仕組みに慣れていなかった。
子供の頃に駅員に切符を渡していた思い出が邪魔をしているのかもしれない、彼はそう思っていた。
切符切りの鋏が素早く一定の間隔で鳴り響き、駅員に切符を渡せば瞬時に返してくれる入場時。
顔や動作などを見ながら乗客が出してくる切符と見比べ、おかしなところがあれば即座にそのお客を止める出場時。
どちらの行動も実に見事であり、厳しく訓練されている事が良く判った。
自分はそれが好きだったのかもしれない、切符の挿入を受けて電子音とともに自動的に開く改札扉を通過しながら彼は思った。
もっとも、それが単なる感傷に過ぎないことは良く判っている。人手による改札は東京では既に昭和四十年代に無くなっていた。
何事も時代とともに変わっていくのだ、彼は思った。
だが、変わらないものもある。老人はその確認をするために此処へ来ていた。
改札前を出た老人は二十段ほどある階段を登り始める。手摺は使わない。
若い頃は戦闘機搭乗員として鳴らし、黎明期の宇宙開発を飛行士として支えたという自負がそうさせていた。
彼はとても九十代とは思えぬ確かな足取りで一歩一歩踏みしめるように階段を登る。
その横を半ズボンを穿いた小学生と思しき男子が軽やかに駆け抜けていった。
子供はあっという間に階段を登りきりると奇声とともに走り去っていく。
それを慌てて追いかける父親らしき男性と、男性を叱咤する母親らしき女性の姿を見た老人は苦笑する。
かつて、若い頃に――かれこれ六十年ほども前に――老人も同じようにして慌てて子供を追った事を思い出したのだ。
いつの世であっても、子供の行動というのはさしてかわらないものだ。階段を登りきった彼はそう思った。
老人は出口を示す黄色い看板に従い歩き始める。だが、少しばかり行ったところで立ち止まった。
なにやら異音が聞こえる。何か軽いものが激しくぶつかる音だ。時々、まるで変圧器のような唸る音もする。
音は冷菓の自動販売機付近から聞こえていた。老人はそちらに歩を向ける。彼にはその音が何なのか見当がついていた。
果たして、音の発生源にたどり着いた彼は微笑みながらそれを見下ろす。
そこには蝉がいた。飛んでいるうちに地下に入り込み、止まる木も無いここで仰向けになっていたのだ。
老人は二言三言口の中で何かを言った。直後、蝉は柔らかな光の珠に包まれるようにして宙に浮かぶ。
珠は蝉を包んだまま老人の肩の高さまで上昇し、そこで動きを止めた。
彼は満足気に頷き、ステッキを突きながら再び歩き始める。光の珠は彼の後をふわふわと付き従った。
地下通路の人通りはそれなりに多かった。朝晩の混雑時ほどではないものの、様々な人々で活気に満ちている。
小学生を連れた親子連れ、制服を着た学生の集団といった若い人たちだけでなく、比較的高い年齢層の団体ももちろんいる。
白髪赤眼を煌かせて何かと写真を撮る人形態のドラゴンや牛頭人といった獣人族の姿も見える。
だが、老人と珠に注目するものは殆どいなかった。
半袖シャツを着て合成繊維製の鞄を持った会社員らしき男性が携帯電話で何やら話しながら老人を眺めていた程度だ。
老人はそれらの人々の表情を観察した。どの顔も明るいように彼には思われた。
皆なにがしか悩みを持っているのかもしれないが、それでも強く生きていこうとする意志が読み取れる。
老人は笑みを深める。自分たちのやってきた事が認められたような、そんな気がしたのだ。
ステッキがこつこつと石造りの床を打つ音を響かせながら、一番出口に向かう。
地下鉄九段下駅の一番出口は九段坂の途中に作られている。
駅が坂の下のほうに作られている関係上、地上出るためには長い階段を登る必要があった。
彼に従う若者たちは、老人が今度も階段を登るのだろうと階段に先回りする。
それを確認した老人は笑みをどこか悪童を思わせるそれに切り替えるとエスカレーターに歩を進めた。
階段で彼を待っていた若者たちの狐につままれたような表情を見て、彼は軽く声を出して笑った。
二基のエスカレーターを乗り継ぎ、老人は地上に出た。八月の陽光が彼に容赦なく叩きつけられる。
彼は胸ポケットから旧い米国ボシュロム社製のサングラスを取り出した。
現存するものは世界に殆ど無いだろう珍品中の珍品だ。アメリカが存在していない以上、二度と作られることのない品でもある。
彼はこれを終戦後に神戸在住のアメリカ人から入手していた。それ以来、もう六十年以上の付き合いになる。
老人はあちこち傷がついている色眼鏡をかける。鮮やかさと引き換えにまぶしさは抑えられた。
左手に北の丸公園を臨む九段坂を登り始めた時、彼の肩口から鉄板で油がはねるような音が聞こえる。
彼の右肩近くに控えている光の珠がその音を発していた。珠はまるで抗議するように短く、断続的に唸りをあげている。
すっかり珠の存在を忘れていた事を思い出した老人は珠に向かって謝った。
そうしてから右手の人差し指をくるくると回した。彼の手の動きに従って光の珠は空中で旋回する。
数回ほど回ったところで、老人は千鳥ヶ淵の方を指差す。
光の珠は弾かれたように動き始め、電気自動車が行き交う四車線道路を飛び越えていく。
田安門上空付近に差し掛かった時、老人は指を鳴らした。珠がはじけ、中から蝉が勢い良く飛び出した。
蝉は喧しく鳴きながら武道館の方へと飛び去っていく。
これでいい、老人は思った。これが、彼らにとって自然なのだ。
蝉は何年もの間地中にいて、ごく短い夏の間に伴侶を見つけ、子孫を残して再び土に帰る。
それが蝉にとって自然の営みだ。地下の石畳の上で、人工の明かりに照らされながら死ぬのは本望では無いだろう。
老人はにこやかに蝉を見送ると坂に向き合った。
東京工大の脇を過ぎ、あまり車が通らない横断歩道に差し掛かった。信号は赤だ。
彼は右手やや斜め前を眺めた。ちょっとした角度のついた坂の頂に全高二十メートルを勇に超える巨大な鳥居が見える。
昭和四十九年に完成した大鳥居だ。朱に塗られたその威容は、抜けるような夏の青空に映えて非常に美しい。
元々は鋼管で作る予定だったが、エルフ族のはからいで世界樹の大枝が提供されたことにより全木製として作られていた。
信号が変わる。老人は横断歩道を渡り、車止めを超えて瀝青ぶきの坂道に入った。
彼はさざれ石と狛犬を横目に見ながら坂を上りきり、大鳥居に差し掛かるところで立ち止まった。
老人は脱帽してサングラスを胸ポケットに納めると、本殿に向かって深々と一礼する。
眼を閉じて何事かつぶやくと右手に持ったパナマ帽を左胸に押し当てるようにして再び歩き始めた。
道はいつしか石畳に変わっている。普段であればこの参道にも小型の観光バスなどが停車しているのだが、今日はその姿は無い。
老人はゆっくりと歩を進める。道の両側に立ち並ぶ緑色鮮やな木々から聞こえる蝉時雨が耳に心地良い。
先ほどの蝉もこの一員だったのだろう、老人はそう考えて一人微笑んだ。。
視線を参道に移すと、作業服姿の男たちが道端に落ちている枯葉などを掃き集めているのが見えた。
八月十五日――いわゆる”お盆の中日”――には全国から参拝者が訪れるため、その準備として清掃をしているのだろう。
老人は、首から下げた手ぬぐいで暑そうに顔を拭っている彼らに一礼する。
まだ二十代になるかならないかの少年だった。真っ黒な顔をした彼らはどこか照れくさそうに微笑んで頭を下げた。
最近の若者もまだまだ捨てたもので無い、そう考えながら老人はさらに歩いた。
大村益次郎の銅像前には人だかりが出来ていた。肌を大胆に露出した金髪女性が多いところから見てエルフ族だろう。
何事か姦しくしては写真を撮り、そのたびに笑い声に包まれる光景を見て彼は強い既視感にとらわれた。
似たような光景を、かつてごく僅かだけ滞在したトーアの酒場でも見た事を思い出したのだ。
彼が横を通り過ぎたときもまだ若い――とは言えエルフだから五十は過ぎているだろう――エルフ達は笑い転げていた。
そのまま木々と灯篭に囲まれた石畳を歩き続けた。それは”華族會舘”と書かれた一際大きな灯篭のところで一度途切れる。
両脇にはこじんまりとした茶屋が見えた。店内に”靖国そば”と書かれた看板が見える。
老人は、毎年何回も靖国を訪れていると言うのにこの茶屋で何かを食べたことが無い事に気がついた。
いつもあの”靖国そば”が気になるのだが、ついつい機会を失ってしまうのだ。
今日にしても、この参拝の後には食事会の予定が控えている。残念だが、またの機会にするほかは無いだろう。
老人は歩を進める。一本の道が参道をさえぎるようにしていた。車通りは殆ど無いが、それでも左右に気をつけて素早く渡る。
”下乗”の木札を通り過ぎる。青銅で出来た第二鳥居の前で立ち止まった老人は、先ほどと同じように一礼してから通った。
”大阪砲兵工廠”の文字が刻まれている第二鳥居にはがっしりとした短躯の男たちが屯して何やら議論していた。
その髭面を視るまでもなくドワーフ観光客の一団だろう。彼らの金属加工者としての血が騒いでいるのに違いない。
彼らの性質として、何にしろ面白そうな金属工作物を見るとあれこれと分析せずにはいられないのだろう。
老人はかつてイーシアの地で彼らとともに過ごした、喧しくも楽しかった日々を思い出していた。
怒鳴りあうようにして議論する彼らの横を抜けて参道の左にある手水舎に入る。
金属製の柄杓を手に取り、清めようととしたところでふと横を見る。牛頭人の親子連れが柄杓を片手に首をひねっている。
牛頭人のしきたりに従い、老人は思念波での意思疎通を試みた。
彼らは一瞬驚いたものの、老人の顔を見て何事か納得したらしい。気さくな、だが敬意の篭った口調で話をはじめた。
どうやら、口のゆすぎ方が良く判らないらしい。確かに彼らの口は水を含むのにはあまり適した形ではない。
どうしたものかと老人も首をひねる。見かねた同行の若者が水を口に含まずに飲み込むように言った。
老人もは一瞬驚いたものの、すぐに納得する。確かに、口をゆすぐのは生臭い息で神前に出る事を避けるためだ。
であれば、飲み込んでしまっても同じことだろう。牛頭人達はその説明に納得した。彼らは早速お清めをはじめる。
老人が清めを終わったあとも、柄杓から長い舌で水を掬い取る音が聞こえてきていた。牛頭人は水を素早く飲むのが苦手なのだ。
彼はその音を気にすることなく檜作りの神門に歩を進めた。門の両脇には記念写真の出店が出ている。
とはいえ、それほど忙しくは無いらしい。写真屋の老人はバンカラ学生風の若い獣化虎人と長々と話し込んでいる。
老人が若い頃はそれなりに見かけた格好だが、最近は殆ど見かけなくなっていた。老人は懐かしむ眼で学生風の男を眺めた。
視線を感じたのか、虎人学生が老人の方を向く。どこか胡散臭げな視線を飛ばす虎人に老人は軽く頭を下げた。
次の瞬間、彼は棒を飲んだようになって眼を一杯に見開き、老人に向かってぎこちない敬礼を行った。
老人は苦笑しつつ答礼を返す。彼が神門をくぐる間中、虎人は直立不動の体勢を崩さなかった。
門をくぐると石畳と玉砂利の道が見えた。その向こうには大きな木造建造物が見えた。
拝殿だ。建物の前では数人の男女が礼をしている。今日は恒例祭の日では無いため、白い布が掛けられていた
数人の禰宜が何やら忙しげにしている横を通り抜け、数段の階段を登って浄財箱の前に立つ。
彼は小銭入れから”始終ご縁”の語呂合わせで四十五円分の硬貨を取り出して箱に収める。
二礼、二拍手。彼は九十三歳とは思えない力強さで拍手を打った。その音は拝殿に響き渡る。
一礼。彼は深々と頭を下げた。ともに戦った戦友達に――知己であるか否かを問わず――心からの感謝を捧げる。
頭を上げた彼は数歩後ずさりながら階段を降り、そこでまた頭を下げた。
ふと、拝殿にある掲示板が眼に留まる。そこには昭和天皇が昭和四十年に詠んだ歌が記されていた。
”戦いの果ててひまなきそのかみの 旅をししのぶこの室を見て”
題は”三朝の宿”とあった。確かにあの戦争の直後、陛下は全国を行幸されていた事を老人は思い出した。
昭和四十年という事は戦後十七年。歌にも”そのかみの”とあるように、二度目の行幸ということであろう。
確かにあの当時は戦中や戦前とは随分異なり、昭和元禄の真っ最中でもあった。
だが同時に誰もが平和のありがたさを痛感していた時代でもあったように老人は記憶している。
おそらく、ちょうど一世代分ほど”戦争を知らない子供たち”が出揃った頃でもあり、社会が大きく変わり始めるときでもあった。
六十代から下は”戦争を知らない世代”になってしまった今となっては当たり前の価値観も、この頃から出始めたものだ。
それが良いのか悪いのか、正直なところ老人には良く判らなかった。
だが、悪い面ばかりではないはずだ。彼はそう思っていた。
少なくとも、何かしらいい面はあるはずだ。人間は常に進歩しているはずだ。そうでなければ、あの戦争は何だったのか。
老人は右を向き、遊就館を目指す。ここに来た時には必ず訪れる場所だ。
斎館社務所を通り過ぎたところで制服姿の軍人達の一団とすれ違った。手にした帽子からして<翔鶴>戦闘機隊の搭乗員らしい。
一団の一人が老人に気がついた。彼らは立ち止まると老人に向かって緊張した面持ちで敬礼を行う。
老人はさきほどと同じように苦笑しながら答礼を返し、そのまま遊就館に向かう。
後ろからは興奮気味の声が聞こえる。彼と出会った事を何がしか語り合っているのだろう。無理も無い。
大戦中は陸軍及び空軍戦闘機部隊でも屈指の撃墜王として鳴らし、戦後は宇宙開発で活躍した彼は生きた伝説でもある。
だが、その自負とは別に、老人の中には随分大げさな評価だと思っている部分もあった。
あの当時、あの状況であれば誰でもやった事をやっただけだではないか、そうも思っているのだ。
そして、彼はそれを確認するためにここに来ていると言っても過言ではなかった。
遊就館の入り口が見えるところまで来た老人は、その大きなガラスの壁越しにお目当てのものを見つけた。
逸る心を抑えながら意識して歩みを緩め、深呼吸するように深く息をしてから改めて硝子製の自動扉に近づく。
入り口すぐにある入場券の自動販売機の横を通り過ぎ、博物館では無いほうに向かって歩く。
蒸気機関車、十五サンチ榴弾砲と二十サンチカノン砲に支援されるかのようにして佇んでいるものこそ、彼の目指したものだ。
彼は穏やかな顔でそれを見つめた。その視線の先には一機の飛行機がある。
”トーア決戦機”とも呼ばれた戦闘機――キ八四、四式戦闘機"疾風"だった。
この飛行機自体は戦時中の機体ではない。展示用に、中島飛行機が当時の図面を元に作り上げた新品だ。
だが、それでもこの機体は老人にとって特別な機体だった。
銀色の地肌に数箇所の日の丸。機体後部に記された白い帯も鮮やかだ。
しかし、何よりもこの機体が特別なのは、胴体に黄色く記された”山鹿流陣太鼓”の絵柄だ。
それは大戦中に同盟軍だけでなく大協約軍からも"ウィスプ部隊"として畏怖の視線を向けられた部隊の所属機を示している。
尾翼に書かれた、戯画化されたドラゴンやワイバーンは総数七十近くにも達している。
老人はこの機体に――この"新品"と同じ塗装をした機体に――誰が乗っていたのかを良く知っていた。
乗っていたのは戦隊長である坂川大佐。この塗装は、"ウィスプ部隊"戦隊長機を模して塗装されているのだ。
もっとも、それを知っているのは老人だけではない。ある一定以上の年齢の日本人ならば、誰でも知っていると言ってよかった。
坂川大佐の戦いは数度に渡って映画化されているし、空軍総司令官も勤めた黒江保彦元帥の著作でも有名なのだ。
描かれ方が余りに美化されているのではないか、そう批判する向きも無いではなかった。
しかし、かつてその部隊に――"ウィスプ部隊"こと独立飛行第四十七戦隊に所属していた老人は、その殆どが真実だと知っている。
彼は機体の後ろにある説明板のところに足を運んだ。前半には"疾風"の諸元が、後半には坂川大佐の戦果が記されている。
大佐の記録は”<風の海>海戦で戦死”という一文で終わっていた。その一文を読んだ老人は唇をかみ締める。
”<風の海>海戦”という大戦最大の負け戦に当時陸軍所属だった四十七戦隊が出撃した、あの戦い。
<風の海>での空戦で、坂川大佐はブルードラゴン三騎――うち一騎は副団長騎だという――を撃墜している。
それによって成し遂げた"青竜騎士団の実質的殲滅"という大戦果と引き換えに得た代償は"戦隊長戦死"という結果。
だが、その戦いに、彼は参加していなかった。彼は眼を閉じた。
あれ以来、自分は何故あの戦場に居なかったのかという後悔の思いは消えていない。戦後六十年以上過ぎても、なお。
許しを請いたい訳ではない、彼は思っていた。ただ、最善を尽くせなかったことが悔いに繋がっているのだ、そう思っている。
それ以来、彼は常に最善を尽くす事を心がけた。その結果火星飛行士にまでなったが、それが最善だったのかは自分でも判らない。
大佐だけでなくあの戦争で散っていった十八万の英霊に対して自分は恥じない生き方をしてきただろうか、老人は自問する。
答えが出ないことは判っていた。おそらく、死ぬまでその答えは出ないのだろう、彼はそう思っている。
老人は"疾風"に一礼すると、展示物を見ることなく遊就館を出る。彼にとっての遊就館とは、あの"疾風"なのだ。
蝉時雨の中、彼は空を見上げた。澄んだ青空の向こうに坂川大佐の笑顔が見えたような、そんな気がした。
初出:2010年8月15日(日) 修正:2010年8月22日(日)