昭和16年 8月8日 横須賀海軍鎮守府内

「ガソリンとオイルを自給できるかもしれん、だと?」
「はい、山本五十六大将が既に確認されたそうです。本日行う2度目の実験には是非とも軍需局員にもお越しいただきたいとの事でした。」
渡辺伊三郎機関中佐はいい加減うんざりしていた。山本大将も2年前のことを全く懲りてないと見える。
また水ガソリン詐欺のような目に合いたいというのか。今度の奴も、どうせ、あの本多某のようにガソリンを持ち込んだ詐欺師に違いない。
全く、この手の詐欺めいた輩は次々と現れやがる。
「それで、その実験とやらにはどれだけの準備が必要なのだ?大体、この非常時にそんな事をやっている暇があるというのか?」
燃料全般を扱う渡辺の下には日本が異世界へ転移したらしいという極秘情報が非公式にではあるが伝わってきている。
事実、外地からのタンカーのみならずあらゆる船舶が途絶して久しい。このような事態の時に-
「冗談に付き合っている暇は無いのだ。断れ。いや、それだけでは駄目だ。そんなやつは警察に突き出してやれ。」
「しかし、既に海軍航空本部でも現象を確認しているそうです。局長の指示でもあります。」
渡辺は一つため息をついた。すまじきものは宮仕え、だな。
「それで、いつ、どこでやるんだ?」
「今から三時間後に、ここの講堂でやるそうです。なんでも、10分ほどで終るとか。」
10分?詐欺にしては随分手回しが良いな。まあ、そのくらいなら付き合ってやらんでもないか。
「判った。出席すると局長に伝えてくれ。」

3時間後、講堂には錚々たる顔触れが揃っていた。
「近衛首相、豊田商工相、東条陸相、及川海相、山本連合艦隊司令長官に木戸内大臣もか・・・」
他にもよく判らない学者らしき人物も居る。渡辺はうめいた。これで何も無かったら腹を切らせたくらいでは済まんぞ。
講堂の扉が開き、大きな木桶をもったよく日焼けした男達と、仕立ての良いスーツを着た中肉中背の紳士が入ってきた。
紳士の頭頂部は禿げ上がっており、わずかに残る頭髪は油で塗り固められている。
人の良さそうな目をしているが、鼻下に蓄えたカイゼル髭が何とも怪しげだ。
彼は「一の谷自然科学研究所」の所長だと名乗ると、日本に石油が無い事の無情さと自分の発見の意義について語り、
「帝国はこれでガソリンとオイルでは間違いなく自立できるようになります」
と言ってのけた。ますます怪しい、彼はそう思った。

講堂の中心に机が用意された。紳士が恭しく礼をし、居並ぶ全員に声をかける。
「大変お待たせいたしました。それでは、これよりガソリンを作る作業に入らせていただきます。」
言うが早いか、彼は脇の男達からタライと麻袋を受け取ると、風呂よりも大きな木桶から巨大な何かを取り出した。
・・・随分でかい生き物だな。イカかタコか、或いはクラゲだな?
渡辺の見立て通り、それは巨大なクラゲだった。もし彼に海洋生物の知識があれば、エチゼンクラゲによく似ていると思ったに違いない。
「まずは、このクラゲを腑分けし、カサ、キモ、脚の3つにします。」
言うが早いか、クラゲを解体する。そして
「では、ガソリンから作成します。このカサの部分を麻袋に入れから袋を万力で固定し、絞ります。」
麻袋に詰められたクラゲが絞られていくに従い、タライの中に何かの汁が滴っていく。
「こうして出来上がったこの汁こそ、高オクタン価のガソリンなのであります。
 この絞りたての状態で航空機用の発動機にも利用可能です。我輩の計測では100オクタンをわずかに超えております。
 また、このキモを絞ると優秀な潤滑オイルになるのであります。その品質においては米国産を上回っております」

あまりのことに渡辺は声もない。しかし-
兵隊が陸王を講堂の中に運び込んだ。中に何も無い事を示すためだろうか、燃料タンクは別の兵隊が運んでいる。
兵隊は燃料タンクに何も無い事を一同に示すとタライの中の液体を燃料タンクに注ぐ。
陸王のキックペダルが蹴られる。陸王はそれに応えるかのようにエンジンを始動させた。
「このように、このクラゲ、仮に"アブラクラゲ"とでもしますか、これを絞るとガソリンが採れるのであります。
 此れが養育増殖できれば、帝国の燃料事情は安泰であります!」
一の谷の声に、学者連中だけでなく来賓各位からも万歳が聞こえはじめた。あまりの事に、渡辺は衝撃から立ち直れなかった。

水中の窒素化合物やリン等の濃度上昇が過剰におこると富栄養化が過剰に進み、自然環境を破壊してしまう。
このクラゲはそれを防ぐ役割をしているらしい。過剰な窒素化合物を内部に共生する細菌が分解してガソリン化するのだ。
クラゲが死んだ場合、件の共生細菌がクラゲの体を逆にガソリンを炭素と水素に分離して生態系を保つ仕組みになっている。
淡水、海水問わずに生きられるように構造を変化できるが、これはガソリンが関係しているのではないかと思われる。
以上が一の谷博士の分析レポート結果だった。

結局、アブラクラゲ(仮称)は近海及び内陸の湖で養殖を行う事になった
。適当な汚水を流し込むだけで良い上に繁殖力も高いなど養殖も非常に簡単だと判ったためだ。
一ヶ月ほどしか経っていないが、今では八郎潟や霞ヶ浦といった巨大湖を中心にを中心かなりの燃料が採れるようになっている。
後は重油が何とかなればよいのだがな、ぼんやりと渡辺がそう思った時に執務室の扉が開いた。
「一の谷博士から、重油についても解決が出来そうだとの報告がありました。」
長辺が800メートルもある大型のカツオノエボシ状の生物が発見され、その内部には重油が満ちている、との報告だった。
現在、洋上警備に当たっていた「足柄」が横須賀まで曳航中だと言う。渡辺は匙を投げたように声を張り上げる。

「こんなご都合主義があってたまるものか!」
初出:2009年10月24日(土) 修正:2010年1月10日(日)

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