昭和二十三年三月三十一日 <<大いなる海>>東方海上

<<大いなる海>>は、その名前の通りに大きな海だった。
"旧世界"の海洋と面積自体はほぼ同じと思われたが、大陸が偏っている分、"旧世界"の太平洋よりもかなり大きい。
これだけ巨大な海洋があり、かつ大陸の配置が偏っているのであれば、気候が"旧世界"と異なっていても不思議は無いはずだった。
太陽の熱を吸収する海洋面が大きければ気流に影響を与える事は確実だ。
気流に影響があれば、台風は言うに及ばず、寒波や熱波にも影響が出ないはずが無い。
少なくとも、"旧世界"の常識に従えばそう考えて間違いないだろう。
だが、現実は異なっている。"新世界"の気象は、おおむね"旧世界"のものと大差なかった。
そのお陰で日本政府は"大転進"当初に国民を欺くことが可能になったのだ。
<<大いなる海>>はこの気候を生み出すのに関係があると考えられていた。
日本の出現によって海流その他の影響で気候が変わるはずのムルニネブイに影響が無いことからもそれがうかがえる。
海自体が何らかの魔力をもっており、世界に――あるいは、そこに住む知的生物に――都合のいい気候を作っているのだろう。
学者たちは半ばさじを投げるようにそう考えていた。

しかし、人類を含む"知的生物"が本来住んでいない地域にはその恩恵は与えられなかった。
<<大いなる海>>の中央部から北部にかけて、すなわち陸地が皆無な地点において、この海は別の顔を見せる。
"旧世界"最大の大洋、その静けさから太平洋と名づけられた海にしても、北部はかなり荒れる事が知られている。
この"新世界"においてはそれがより顕著な形で現れるのだ。
ほとんどの場合にはそれほど問題が無い。大洋らしい、落ち着いた顔を見せることが多い。
だが、ひとたび荒れれば――荒れる、などという言葉が生易しく感じられるほど猛々しい側面を見せるのだ。
連続する波が鉄の船をまるで小船のように扱い、ブリッジが見えなくなるほどの水しぶきが幾度も襲い掛かる。
酷いときには巨大な戦艦ですらも航行不能に陥ることがあるほどだ。
特に台風の場合が酷い。陸地が少ないことが影響し、熱水から力を得る台風は際限なく大きくなることも可能なのだ。
"旧世界"の基準で行けば最大級にまで成長することは普通で、それ以上の規模になる事も決して珍しくない。
赤道付近で発生した巨大台風に巻き込まれた場合、運がそうとう良くなければ命は無いだろう。
実際、西方大陸からの進出時にはそれを痛感させられることになる。
海の様子が良く判っていないころに漁に出た漁船団が幾度か全滅しているのだ。
ムルニネブイからの海洋情報提供によりいくらかましにはなったものの、その手の被害は後を絶たない。
<<大いなる海>>は、その女性的な名のとおり、荒々しい一面も持っているのだ。

その<<大いなる海>>は、日本海軍第一艦隊に対して、今のところ荒れた側面を見せてはいなかった。
ただし、それは長く続くようなものではないと予想されている。
実際、赤道方面では台風が発生しているらしい。赤道ははるか南のため、現在のところまだ直接の影響は無い。
しかし、エルフの気象予報官の話では四日後までには相当荒れるだろうという事だった。
もっとも――

――実績を元に占いを行うのを、科学的な予報と一緒くたに扱うのが正しいのか、良く判らないがな。
第一遊撃部隊司令官の松田千秋少将は思った。
もっとも、”科学的な予想”に必要なデータの蓄積が十分でない以上、この"占い"に従うしかないというのは良く判っている。
とはいえ今は非常に重要な局面だ。ここで間違いがあったのでは――

「黛艦長、GF司令部からの指示はあったか?何か受信してはいないか?」

松田千秋少将の声に<紀伊>艦長の黛治夫大佐は首を振った。ある意味当然でもある。
司令官である松田の知らない事を黛が知っているはずも無い。
その程度のことは当然松田も知っているのだが、訊かずには居られないのだ。

「まだ何もありません。ですが、<尾張>の神艦長も言うとおり・・・何だ?」

黛は息をきらせている伝令に尋ねた。伝令は敬礼もそこそこに告げる。

「気象班より連絡です。このままの進路を保った場合、72時間以内に台風に直撃するとの事です。」

松田はため息をついた。予想していた通りとはいえ、あまり良い兆候ではない。


松田達は大協約の艦隊が<<大いなる海>>を西進している、との情報を得た日本軍が送り出した部隊の一部だった。
主力は六隻の<雲竜>型空母と四隻の<大鵬>級空母。そして、その空母に搭載された総数一千機にも達する航空機だった。
頭の固い日本海軍ではあったが、少なくとも大協約軍を相手にするにあたっては、航空機による攻撃が主力になると考えていた。
如何に大協約の戦艦群が強大であろうと、数百機を越える"流星改"の群による飽和攻撃にはかなわないと判断したのだ。
確かに<風の海>海戦では敵の魔法攻撃の前に航空攻撃は失敗した。だが、あのような手は何度も食らう種類のものではない。
同じ事をやられても、今度は備えがしてあった。広域魔法攻撃を無効にするだけの結界魔法を展開する専用機を用意したのだ。
この機体があれば、今度は間違いなくやれる。<風の海>海戦の復仇に燃える山口大将とその幕僚達はそう考えていた。

松田が率いる第一遊撃部隊は戦艦五隻を中心とした砲戦部隊だった。
万が一、何らかの理由で航空攻撃が失敗した場合、直接砲火を交えるための部隊。
本来であれば、松田達の出番がある前にすべてが解決するはずで、その役割はあくまで予備だったのだ。しかし――

「我々はもっと先行した方が良いかもしれません。」

<紀伊>艦長の黛大佐が言う。

「台風が来るという気象予測が当たるにしろ外れるにしろ、そうすべきでしょう。
 主隊との距離は、現状では300海里近くあります。確かに全速で入れ替わろうとすれば一晩でいける距離ですが――」
「即応体制が取れるほどの距離では無いな。」

松田は頷いた。

「何かあったときに、全速で位置を交換できるような事が出来るはずも無い。
 つまり、普通に考えれば一日以上の時間を無駄にすることになる。」
「はい。このままでは、敵艦隊は先行する機動部隊の方に向かってしまいかねません。
 敵艦隊を我々の方におびき寄せるためにも、我々は先行すべきです。
 これだけの陣容であれば、敵軍のどのような攻撃であれ恐れるに足らないはずです。」

黛の言葉は嘘ではない。第一遊撃部隊にその艦隊に所属する各艦にはそれだけの力があった。
開戦以来、長く聯合艦隊の旗艦を勤めてきた戦艦<大和>と<武蔵>。
"旧世界"のアメリカ艦隊を迎撃するために作られた<大和>の46サンチ砲はこの"新世界"でもいかんなく威力を発揮している。
六年前のバレノア沖海戦では大協約の戦艦群と単艦で渡り合い、新鋭戦艦一隻を含む三隻の戦艦を沈めているのだ。
当初はそれほど高くなかった防空能力も飛躍的に強化されている。
"新世界"最高の防空兵器である【裁きの雷】を日本風に改造した”二式電撃砲”。
魔法原理と科学理論を組み合わせる事で――魔道士が電探と連動して攻撃を行う事で、一基あたり最大十目標を攻撃出来る。
<大和>はこれを四基、かつて副砲が搭載されていた場所に装備していた。
この二式電撃砲を用いて全力迎撃を行えば、一分間に最大四十の目標を迎撃出来るとされていた。
航空攻撃に対して、対艦飽和攻撃が行われたとしてもほとんど無敵という事が出来る。
その<大和>と同型艦の<武蔵>が揃っている。この二隻だけでも、相当数の敵戦力を相手取ることが出来るだろう。

それに加えて、<長門>もいる。老いたりとはいえ、まだまだ有力なフネ。
<大和><武蔵>の就役前には、横須賀で沈んだ<陸奥>と供に長く聯合艦隊の旗艦を勤めた戦艦。
海戦の主力が航空機に切り替わりつつある中、艦暦も三十年近い<長門>は間もなく退役するとも噂されている。
だが、彼女も間違いなく有力な戦艦だった。現に昨年も近代化改装が施されている。
同じ旧式戦艦でも<風の海>海戦後にムルニネブイに売却された<扶桑><山城>とは比べ物にならない扱いだった。
まるで、日本海軍は横須賀で沈んだ妹の復仇をなさせようとしているかのようだった。

それだけでも十分な陣容ではあるが、それに加えて――

「<紀伊>と<尾張>、大鑑巨砲の権化とも言うべきフネが二杯もいるというのに、後方に控えているだけとは。」

砲術の大家として知られる黛は歯噛みした。
<紀伊>級戦艦は、明治時代に日本が近代戦艦を作り始めてから以来の頂点にふさわしい存在だった。
三百メートルを超える艦影は、<大和>をして巡洋艦と見間違えるほどの迫力に満ちている。
<大和>から見ると<長門>が巡洋艦に見えるのと同様の理屈だ。
しかし、<紀伊>を<紀伊>たらしめているのはその大きさだけではない。
最大の特徴は三百メートルを超える長大な艦体に装備された、五十サンチ四十五口径主砲だ。
超長距離砲専用に開発された二トン半近い重徹甲弾を四万五千メートル先まで飛ばすことが出来る最新砲だった。
<紀伊>級はこれを三連装三基九門装備している。主砲斉射時の合計投射重量は二十トンを優に超えているのだ。
"流星改"が一度に装備できる爆弾の合計が一トン半あまりだから、およそ十五機――一個飛行中隊の投射量に匹敵する。
その規模の攻撃を、<紀伊>は一分間に二度行えるだけの射撃速度を誇っていた。この速度は<大和>級よりも多少早い。
炸薬量が異なるので単純に同列に語ることは出来ないが、それでも恐るべき能力を持っているといえた。
これは魔道科学の技術を導入した自動装填装置の全面採用による恩恵だった。
ゴーレムと呼ばれる自動人形の技術と、科学的な水圧装置を見事に融合させた事による成果だ。
流石にこの規模になると部分的であれ人力での装填作業が不可能に近いことは誰もが認識していたために開発されたものだ。


「これだけの性能を誇る戦艦がありながら、それが海軍の主兵力で無いなどと・・・考えられません。」

黛は続けた。

「確かに、航空機は優れた兵器です。場合によっては、向こうに軍配が上がる事もあるでしょう。
 しかし<大和>にしろ<武蔵>にしろ、この<紀伊>にしろ、二式電撃砲がある以上、それほど分が悪いとも思えませんがね。
「それはそうだな。」

松田が頷いた。<紀伊>は合計片舷四基、両舷で八基の二式電撃砲を装備している。一分間あたりの最大迎撃可能数は八十。
第一遊撃部隊全体での一分あたりの同時迎撃可能数は二百五十にも達する。
先行している主隊――山口大将が率いる機動部隊が全力攻撃をかけてきたとしても、ほぼ無傷で凌ぎきる事が出来るだろう。
しかし――

「だが、艦砲はどうしても射程の問題がある。この<紀伊>にしても、最大射程で撃っても四万五千にすぎない。
 敵が逃げに徹した場合、戦艦では到底届かないだろう。だが、四万五千など航空機にしてみれば一瞬の距離だ。
 射程が長い方が一方的に攻撃出来るという事を考えれば、航空主兵に移るのはある意味当然ではあるよ。」
「しかし、不思議なものですな。」

黛がぽつりと言った。航空機に関する何事かを語ると思われた彼の口からは、しかし違う言葉が発せられた。

「これだけの装備があればアメリカ海軍に――いや、"旧世界"の列強海軍全てに勝てるでしょう。
 しかし、その列強は全て存在しない。我々に与えられたのは――」
「無尽蔵に食料を供給する食料輸出国、あらゆる資源を豊富に産出する資源国、どんな工業製品でも買ってくれる富裕国、だな。」

松田が口を挟んだ。黛は頷くとその顔にほんの少し憂慮を浮かべながら言う。

「ええ。あまりにも、我々に――日本に都合の良い世界です。私は時々、この状況が夢でしかないのではないか、そう思うのです。
 本当の日本はとうの昔に滅ぼされ、我々はその廃墟の中で誰かが見ている夢の中にしか存在しないのでは、と。
 そうでもなければ――」
「艦長、君はなぜそう考え始めたのだ?」

突然、松田は何故か声を潜めて黛に問いかけた。黛は困惑しながらも司令官に囁き返す。

「おかしな話ですが、最近になって妙な夢を見るようになりました。それが直接の原因です。
 ソロモンやフィリピンで激戦を繰り広げた帝国海軍が――」
「アメリカ海軍に次々と撃沈され、最後には<大和>が沖縄にさえたどり着けずに撃沈される夢ではないか?」
「・・・そうです。しかし、なぜご存知なのですか?お話したことは無いはずですが・・・」

松田はしばし逡巡した後で、黛から目をそらすようにして言う。

「実は、俺も同じような夢を見るのだ。今年の紀元節前後からな。艦長も同じではないか?」
「確かに、時機としてはその辺りであったかと。・・・しかし、それでは、あれは――」

何か言いかけた黛だったが、それは息せき切って駆け込んできた伝令の声によって中断させられた。


「GF司令部から、第一遊撃部隊宛に命令!
 ”敵艦隊は台風の中に退避しつつあり。第一遊撃部隊は直ちに前進し、これを捕捉、撃滅せよ”」
「・・・やはりな。主隊の航空攻撃を避けるため、台風に隠れるつもりか。」

松田は表情を引き締めた。<<大いなる海>>における巨大台風は風速七十メートルにも達する。
流石にその中では航空攻撃を行うことは出来ないだろう。

「だが、それでは時間稼ぎしかならないのでは?」
「――おそらく、この戦争最後の決戦を挑むつもりなのだろう。あの夢を見た君なら、その”空気”は判るのではないか?」

黛の問いに松田は複雑な表情で応じた。確かにそうかもしれない、黛は思った。
勝ち目のなくなった戦争では、誰でも同じ事を考えるのかもしれない。彼は松田が第一遊撃部隊に命令を下すのを聞いた。

「これより第一遊撃部隊は敵艦隊迎撃に向かう!おそらく、これがこの戦争最後の砲戦になるだろう。総員、奮励努力せよ!」


初出:2010年09月19日(月) 修正:2010年10月3日(日) 「その1」から改題


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